【追記】

 何日か後で振り返ってみると、新たな疑問がわいてきました。
 それは坂の名前についてです。
 ひょっとすると、「宮の坂」というのは今の諏訪通りのことで、それに交差している新しい道が「宮の前の坂」ではないのか、ということです。
 そうなると、あの小道はどうなるのでしょうか。なんともすっきりしないこととなってきました。
 私としては、参道を分断してしまった道路についての腹立たしさから記述したものだったのですが、ここでの論点は坂の名前についてで、諏訪神社の北側と南側にある昔からの道と、新たに東側に造られた道との3本の道路について話をすすめることとします。(図-8の@AB)


 疑問が湧いたのは、インターネットで北区の坂を検索していた時です。
 以下、その検索名を示し説明していきます。
 @ 東京23区の坂道・北区の坂(6)赤羽北部方面 (図−9)
 A 坂道散歩:北区の坂−2 (図−13)

  @の 東京23区の坂道・北区の坂 では「宮の坂」の項で坂標識(新・旧)の説明を添付しています。

【標識(北区教育委員会設置)の説明】では…「坂の名前にある「宮」は、この地域の旧村名である袋村の鎮守、諏訪神社のことを指しており、坂道はこの神社の参道を経て赤羽方面へと抜けていきます。神社の二の鳥居前にも切通しの坂がありますが、これは新しく出来た坂で、宮の前の坂と呼ばれています。この坂も宮の坂と同様に交通量が多い坂です。」  とあり、さらに 
【以前の標識の説明】では…「旧袋村から赤羽に抜ける重要な坂で諏訪神社の参道に続く。「宮の坂」の宮はこの神社のことである。今も舗装前の様子を思い浮かべれば、樹木の多いこの坂は、浮間の桜草刈りの渡し場へのにぎわいがよみがってくる。切通しの新坂は宮の前の坂といわれ交通量も多い。
 と書かれています。北区は何故標識を変えたのでしょうか?
 坂についての記述はそれほど差異はないように思えます。浮間の渡しの記述に古さを感じた ことによるのかもしれません。

 【以前の標識の説明】でいう「浮間の渡し」とはなんでしょうか。北区図書館に行って調べてみると「北区郷土資料館シリーズ」の「渡河考編」にありました。(図-10)
 かっては、荒川の本流だったこのあたりの重要な渡船場だったようです。川向こうの浮間村は荒川に囲まれた沖積平野のなかにあり、浮間が原と呼ばれる桜草の群生地がありました。
 江戸時代から庶民に人気で、袋村から約700mほど西側にある小豆沢村と浮間村とを行き来するためこの渡しを使っていたようです。 

 坂についての標識をそれほど真剣に見ていなかったことにもよるのですが、一般的に言われている坂名をうのみにしてきたことへの反省もこめて、北区の標識を再度よくみることにしました。 
 青字で示した「宮の坂」についての「坂道はこの神社の参道を経て赤羽方面へと抜けていきます。」という部分ですが、神社の参道を経て……というからには、参道につながる諏訪通りのことを「宮の坂」と言っているのではないでしょうか。
 そうなると、神社裏の小道は名無しの坂ということになります。
 【以前の標識の説明】にある、「今も舗装前の様子を思い浮かべれば、樹木の多いこの坂は、浮間の桜草刈りの渡し場へのにぎわいがよみがってくる。」というくだりですが、これは裏の小道のことを指しているように思えるのです。

 また青字で示した「神社の二の鳥居前にも切通しの坂がありますが、これは新しく出来た坂で、宮の前の坂と呼ばれています。」というくだりで、無惨にも参道を分断した神社東側の新道こそが、「宮の前の坂」ということがわかります。
 二の鳥居というのは、諏訪神社境内にあって、参道に向かって本殿の近くにあるもので、現在のものは大正15年建立とあります。(図-11)
 一の鳥居は「宮の坂」である諏訪通りとの接合点あたりにあった鳥居で、現在は取り壊されてありません。(図-12)

 Aの 坂道散歩 では、坂の標識が設置してある新道を無名の坂とし、神社裏の小道を「宮の坂」としています。それは『北区の坂道』にもそう書かれてあるからというのです。

 ここでいう『北区の坂道』とはなにか?また調べてみました。「浮間の渡し」の際に説明した「北区郷土資料館シリーズ」の「坂道編」のことを指しているようです。図-14がそれで、「宮の坂」については、「諏訪神社の参道でもあり、袋村と赤羽台とを結ぶ坂でもあった。今も、うっそうとして心安らぐものを感じる。」とあり、たしかにこの小道と思われる写真が添付されています。でも「諏訪神社の参道でもあり…」というくだりが理解できません。裏の道は、参道にはつながっていません。それとも大昔はつながっていたのでしょうか。

 さらに「宮の坂の途中から直進する「宮の前の坂」は二の鳥居前にできた切通しの新坂で、交通量も多い」とあります。 
 いずれにしてもAの坂道散歩によれば、神社裏の小道が「宮の坂」で、諏訪神社東にできた新道を「宮の前の坂」と言っています。
 なにやら煩雑になってきました。ここで結論じみたことを記すとすれば、諏訪神社の東にできた新道は本殿の前にあり「宮の前の坂」であることには間違いないようです。
 問題は「宮の坂」です。北側の小道か南側の諏訪通りかということです。
 どちらも明治13年の地図(図-3)には記載されている昔からの道路です。
 諏訪神社の創建は1396年(応永3年)とされていますので、610年の歴史を持った神社です。どこからか移築されてきたこともないようですし、敷地の高さも昔と変わらないように思われます。となると、神社の参道も創建当時のものではないでしょうか。

 神社本殿と参道の方向は東南東を向いています。この参道を取り付けるのに、右側の諏訪通りか、左側の小道かと考えると地形的にみて右側の諏訪通りに取り付けるのが自然であろうと思われます。諏訪通りは昔から今の新道との交差点あたりが低くなっていて、下ってその先登る坂道になっており、この坂を「宮の坂」と呼ぶようになったことは容易に理解できます。
 神社北側の裏の小道は、浮間の渡しへつながる道として江戸時代には大いに栄えた道であったことは確かだと思います。 道脇にも5つの道しるべが確認されたと「北区郷土資料館シリーズ」の「古い道とみちしるべ編」に記載されていました。(図-16)
 現地で確認しようとしましたが、残念ながら見あたりませんでした。
 この裏道に坂名を付けるとすれば「宮の下の坂」か「浮間の坂」あたりが妥当でしょうか。

【追追記】に続く