坂のプロフィール 地域・No. 鹿児島・姶良市−2
報告者 H.Tanaka
報告日 2014年09月20日
登録日 2014年09月20日

 

坂名 龍門司坂 (たつもんじざか) 別名
所在地 地図g  鹿児島県姶良市加治木町木田から加治木町小山田まで
目印  加治木温泉病院から北に400mの山間部。“大口筋”と呼ばれる古道の一部。
坂の特徴 坂の方向  北へ上る
長さ  490m。(全長1,500mあったと考えられる。山間部の490mが当時の趣で残っている)
斜度  やや急坂、のち緩やか(高低差72m,平均斜度8度)
形態  上り口は階段。その後石畳の道。
標識  坂下と坂上に大きな石の標識が建っている。
国指定史跡
  龍門司坂
 また坂下には「大口筋・龍門司坂」という説明板が設置されている。
国指定史跡
    大口筋・龍門司坂(たつもんじざか)
 江戸時代の主要街道(薩摩では「街道」を「筋」と呼ぶ)のうち,鹿児島城下を起点として北上し,白銀坂を通り加治木で宮崎方面に向かう「日向筋」と分岐して,大口を経由して熊本へ続く街道を「大口筋」といいます。
 龍門司坂は,杉木立と木もれ日,そして苔むした石畳の風情が美しい坂道で,石畳敷きの平均幅は約四m,最大幅は七mあり,全長は一五〇〇mと考えられていますが,集落内にある両端部は舗装されており,現在は山間部の四八六・八mが当時の状態で観ることができます。
 この石畳はあまり段差を付けない石敷きが特徴で,斜面に敷かれた石畳がずれないよう,縦に深く埋める石列を地形に沿って設ける工夫が施されています。また,傾斜の強い場所などには側溝を設けるだけではなく,雨水が一か所に集中してのり面を浸食しない工夫も随所にみられ,薩摩街道の中でも大規模に整備された坂道です。
 古文書「加治木古老物語」によると,龍門司坂は寛永十二年(1635)に造られました。私領である加治木島津家が寛永八年(1631)に創設されていますので,藩直轄地であった溝辺郷や加治木領であった竹子(たかぜ)地区と結ぶため,最初に手がけた大工事だったことでしょう。
 古文書によるとこの坂は,「龍門司街道」,「だつもじ坂」,「龍門司之坂」,「たつもんし坂」などと表記され,近くに「往古龍門寺ト云寺有リ,於テ云」と説明してある文書もあります。
 龍門司坂の近くには敷設に使用した凝灰岩(ぎょうかいがん),通称・樋ノ迫石(ひのさこいし)の採石場があり,そこには加治木島津第四代久門直筆といわれる「山神」の祠(ほこら)が,作業の安全を願って建立されています。おそらくこの頃,薩摩藩は領内において大規模な街道整備を実施したのでしょう。
 加治木は粟野からえびの市につながる加久藤筋(かくとうすじ)や,そこから人吉地方へ続く球磨筋(くますじ)なども大口筋同様につながっており,古代から中世にわたり幹線道であった川内−蒲生−国分ルート上でもあって,また湊(みなと)では中世から海外貿易や,産物の積み出しも盛んに行われていました。人や物,情報・技術が行き交い,交易の街として繁栄してきた姿を龍門司坂は伝えているのです。
 明治十年二月,西南戦争では大勢の見送りの人々に送られて,総数六千名とも言われる薩軍兵士がこの坂道を登って熊本方面を目指しており,別府晋介に率いられた六番(加治木隊),七番大隊は大口筋を通って佐敷(熊本県芦北町)へ,西郷隆盛率いる本営は加久藤越えから人吉へ向かっています。
由来 他  1635年、加治木島津家によって大工事で開削された。
 国の史跡に指定されている。
命名時期  江戸時代
参考文献  古文書「加治木古老物語」
写真 撮影日  2014.8.30 撮影者  H.Tanaka

坂下から見る 坂上から見る
坂下から見る
坂上から見る    .
坂下の標識 「大口筋・龍門司坂」説明板
坂下の標識
「大口筋・龍門司坂」説明板

「鹿児島県の坂」リスト[多摩地区] へ全国の坂リスト へ