坂学会/東京の坂道事情  
 

東京の坂道事情

 

坂名は江戸のインフラ

 「坂の名も必要があって生じる。坂名は、無名の江戸庶民が造った都市に不可欠のインフラだった」と確信を持って言えるようになったのは丸の内都庁跡にできた国際フォーラムでの講義を依頼されたからだ。いま思えば至極当然な理解だが、こうした提示をするまで、そういう着眼点を持つ人はいなかった。
 講義は東京都立大学のオープンユニヴァーシティで、本校八王子南大沢にも講座はあるが、そちらは港区に住む私には辛い。で、都心土曜日の設定になったが募集は即日満席、解約待機も締切りとなった。これが坂道への関心か、新しい施設への興味か、ひょっとして私の人気か、不分明なところがミソだが、出席率も上々、講義も毎回に拍手が起こるから、まんざら不評ということではあるまい。
 「既成の説や既知の事象の紹介にはしない。江戸での坂名の発生と展開に関する諸仮説を提示し証明してゆく。そのつもりで聴いて仮説立証の立会人になってもらえるならうれしい」と講義を始めた。24歳から77歳まで72人、真剣に聴かれているのを感じる。
 1957年に慶応義塾が地元の『港区史』を引き受けてから編纂に従事、地誌的な部分で当然坂名にも関心を持ったし、のち74年に港区が坂の標識を建て、その説明文を書いた。当時、坂ブームで歌会始めの題にもなり、解説書が何冊も出て、私も『旅』の座談会やラジオ放送、日本道路協会機関誌『道路』の連載もした。
 だから坂名の挿話の類ならいくらでも話せるが、坂に限らず地名にはなにがしかのうさん臭さがつきまとう。英国の学者が「地名は学者のラビリンス、真面目に扱えない」と言ったとかで、人文地理にわずかに服部_次郎立正大学教授の論文があるが、史的展開に関するものは全くない。時間的な変遷などまじめに考える人はいなかったらしい。
 坂名の地誌的研究と記述は、天和3年(1683)『紫の一本』に始まって以来300年余年、今日まで詳密にはなっても本質的には少しも変わっていない。これを都市社会の歴史の目で見ればどうか。調べて意外にも坂の多い江戸界隈に、坂名の記録が中世以前にはほぼ絶無だという事実に気がついた。どうやら坂名は都市化とともに出現するらしい。
 その状況は「輓近東京坂道事情」と題した講義の近世部分をまとめて『別冊歴史読本 江戸時代古地図総覧』(新人物往来社'97年6月刊)に書き「富士見坂検分記」(雑誌『武蔵野』'97年2月)としても発表した。地図地誌など坂名の初出や数値的な傾向を図示したが、この事実から得られたのは次のような仮説だった。   


坂越えは最小限の旅

 江戸市街には、面積で10%そこそこの町屋にしか町名はなかった。庶民は市街認識の必要上、公式の町の町名不足という行政欠陥を、やむをえず住民サイドで知恵を絞って編み出した俚俗の地名、とくに坂名で補完せざるをえなかった。坂名からは売り込みや搬出入などで右往左往せねばならない庶民の姿が見えてくるようだ。
 こうした坂名は、地誌と地図によると、町名におよそ50年のタイムラグを持って出現を始める。意外な遅れだ。17世紀後半の江戸には800ないし900の町名ができていたと見られるのにたいして、坂名は当時ようやく2,3に始まり30程度に達するにすぎない。この遅延は住民の自発性と自然な社会承認に手間取ったのが原因だろうが、背景にはつぎの事情が考えられる。
 集落内で完結していた中世的生産消費が、広域の大都市流通を必要とするようになって地域相互交通のためのランドマークに集落間隙にある坂が選ばれ、視覚や歩行の生理的感覚から坂名が生まれた。これは坂の語源が境と言われることからも納得でき、坂は異郷への通過地点で最小限の旅の感覚を残すと言われるのもその遺存感覚からだろう。
 時期的に参勤交代におくれ、寺請制度による寺院の増加、そしてあたかも武家の抱屋敷 や門前町屋の増加にパラレルな徴候を見せるらしいのは、おそらく商品生産と貨幣経済の全国的展開の影響を受けて江戸に地理不案内の新規参入人口(社会増)を招いた結果とみるべきだろう。つまり坂名が象徴するのは真の大都市江戸「御府内」の成立である。


『黄金餅』が証明する機能

 坂名が江戸の生活に不可欠だった証拠は、落語の名作『黄金餅』の言い立てに坂が5ヶ所も出てくることでも分かる。山の手の道順説明は坂抜きでじゃ不可能だった。江戸の駕籠かきに坂名は橋名とともに必須の知識だったし、坂名の創出には発案者も不明で資本投下も必要としないが台地辺縁都市江戸の必然インフラストラクションだったのだ。
 坂などの地名を透かしてみると、近年、江戸市街をガーデンシティなどとして評価する趣があるが、実は町屋は、かならずしも武家地寺社地とは一体になりえない異質の便宜的存在に過ぎない。江戸は虎頭蛇尾の鵺的キメラ都市に過ぎないのではないかという疑いも生じる。
 個々の坂名を見ると初めは、ポツリと車坂(上野)またポツリと永坂(麻布)、そしてポツポツと、屏風坂(上野)、菊坂(本郷)、南部坂(赤坂)、聖坂(三田)と出現して、行人坂(目黒)、逢坂(市ヶ谷)、富坂(小石川)、無縁坂(本郷)、浄瑠璃坂(市ヶ谷)、左内坂(同)、法眼坂(麹町)、薬研坂(赤坂)としだいに勢いを増す。これは「夕立現象」と呼ぶにふさわしい。
 また富士見坂は今日、東京で最多数の20坂を数える(現に富士を見るのは日暮里と護国寺前の2坂のみ)が、その出現は意外に遅く、関が原後87年もたった『江戸鹿子』で車坂に遅れること、ようやく1カ所現れる。どこからでも富士が見えてはその場所を特徴付ける地名となりにくい。ある程度富士が見えなくなることが地名の資格になると考えなければなるまい。
 そして、坂名ははじめ、より広域の地名町名を取り、絶口の坂とか飯田町の坂とかと呼んだものが、絶口坂(麻布)、飯田町坂(麹町)と変化する。坂名の副次的追随的性格を現し、これも坂名成立の機序を示す。
 坂は江戸名物の風景画に描かれることも多い。広重『名所江戸百景』、雪旦『江戸名所図会』その他、およそ600枚の描写視点は、拙著『復元江戸情報地図』(1997 朝日新聞社) により1メートル程度の誤差で決めることができたが、坂の絵はおよそ80枚に及んだ。大変な頻度と言わなければならない。
 おおまかに言って、坂名は江戸の地名としては市街形成に100年以上の遅れを見せ、地図が 近年250年を通じて自己の都市認識に悪戦苦闘してようやく最終の形式に達した (拙著『江戸図の歴史』1998 築地書館)のと同様に、長い過程を経て、江戸住民の機知や知識を集約し、ようやく幕末に300余の坂名を編み出し、実現した。


坂名の地点指示機能の変質 

 明治になって5年に、旧来の町名のない旧武家地寺社地に町名をつくる。2年に微小の町は整備していたが急増町およそ400余。町名が普遍すると坂名の地点指示機能は当然変質する。坂名を列挙網羅する地誌地図は跡を絶ち、ひとり明治中期に地誌の名作『新撰東京名所図会』が関連して坂名に気を吐くが、鴎外(『雁』無縁坂)、(『硝子戸の中』『三四郎』団子坂)、藤村(『飯倉だより』植木坂ほか)そして「三田文学」に連載された荷風の『日和下駄』など、文学者の坂に対するコミットメントが目立つようになる。 坂の好悪は作家により大きな差があり、無関心な文豪も少なくない一方で、しばしば文芸の舞台に登場する神楽坂など、とくに作家に好まれる坂もおのずと明らかになる。
 荷風はとくに都市近代化を憎んで坂のへの愛惜ぶりがはなはだしい。これには町名濔漫のほか、舗装普及の歩行感覚変化、交通機関発達で歩行機会減少、建築による眺望の喪失、路面電車停留所の地名参入、止住期間の短縮、近隣社会連帯の希薄化などが働き、荷風は坂の変貌を予感したに違いない。ことに坂名は地縁社会での感染教育によって普及持続する知識だが、その機会も一方的に失われてゆく。
 だが、坂名そのものは増加する。最大時には700以上あったと思われるが、その増加の態様を近代は記録し兼ねている。これには街路の細分化、住宅地拡大、職住分離の進行、近郊の市街化、ランドマークの変化などが大きい原因となったと察せられる。
岸田劉生の重要文化財『切通し〔坂〕の写生』(代々木)がその当時の情景をしのばせている。 


坂名四百年説の行く末は

 戦後、1970年代に突如坂は爆発的ブームに見舞われる。その最大の契機はいわゆる住居表示の施行と考えられる。東京の新町名がブロック方式を採用したため街路の左右が異なった町名となった。そのため人は路傍で住所を探すから、道路通称が設定されたのと同様の理由で、区役所などが多くの坂標識を建てた。法の強制もなく標識としての意味も確定されないまま、期せずしてほとんど同時期に立てたということは、都市社会の無言の要請を行政が感じたからに違いない。
 そしてこれに拍車をかけたのは、長寿延命期間の長期化・趣味の多様化(失われかけるものへの郷愁)だが、電停の廃止や地域社会での人口流動化、それに眺望の変化も歩行距離の短縮もますます甚だしく、個人的交通機関の利用の増大などが、さらにマイナスに働いていると見なければなるまい。
 公式の町名は年月に必ず制度疲労を起こし、何度も変わっている。が、坂名は、か弱いようでもほとんどは現存する。初出以来350年、今日では坂名の都市社会的な機能は失われて行くばかりだが、今後どうなるか。記録があるから全く忘れ去られることはないだろう。
 けれども、すでにもう坂名は普及したから標識は要らない、という意見も行政にはあるようだし、下町に育ち早くから運転手つきの車に乗って東京でとくに坂を意識しないという人さえいた。庶民の産物だからNGO,NPOで坂の戸籍簿を作ったり、新規の命名をしたりしてはという記事が載ったことはあるが、全く反応はなかった。富士見坂界隈でも関心を持つ人は意外にすくないのだ。
 それやこれやで、東京の坂名400年寿命説をたててみたが、この理論が果たして当るか。あと50年、私には確かめることはできまい。証明は若い読者の記憶に任せることになる。

〔『三田評論』'97 8・9月〕  

 

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