東京坂道物語  目次

 
1 坂道はよみがえる
傾きが頭痛を起こす
坂は平地の波瀾
あの世との境も坂
坂は境である
坂ブームを考えると
坂の名の効用
駕籠屋の戒め


2 なぜ坂道は死んだか
坂の名と町の名
急造町名400余
社会増があると
人が動けば・・・
坂が感じられない
海のみえない潮見坂


3 復活の記念碑
坂の碑のはじまり
三つの坂の由来
異説榎坂由来
「余の木」の聞き違い
坂名も改宗?
国栄えて坂道亡ぶ


4 ダブル・スタンダード
坂を愛した先覚者
坂道再発見
卒論のテーマに
回顧する人々
住居表示の貢献
坂名に人工呼吸


5 坂名の七変化
坂名に区の標識
標識の立て方
大使館は坂のそば
問題続出の考証
最高七つの異名
10もある幽霊坂


6 正説邪説複雑錯綜
幽霊・若宮・行人
まちがいの多い絵図
文献尊重と地元尊重
上下で違う坂名
芋とウドン


7 丁々発止の論争
近江屋対尾張屋
大学対建設省
地元の説に軍配か
開通の順序
ウドン子の嘆き
東京の坂の数
坂の多い区


8 東京坂名尽し
坂道の分類
一番多い宗教関係
三万円と二百円
坂の名にも涙



東京坂道物語

〔注〕第7項の「写真」、第7項の「図」「表」等は 掲載準備中
1 坂道はよみがえる

 <傾きが頭痛を起こす>

 傾いた家で暮らしていると、頭痛がしてくる、という話を聞いたことがあります。たしか、新潟地震のあとだったと思いますが、公営の鉄筋中層住宅が、倒れたり、傾いたりしたなかで、わずかに傾斜した棟では、そのまま住み続ける人があったのでしたが、どうもしばらくすると、頭痛を訴える人が出てきたという話でした。
 さもありなんという気がします。人間はふだんから、水平面と馴れ合って暮らしていて、それが何かの都合で、狂った状態に置かれると、ひどく違和感を覚えてしまうもののようです。
 生理的にも、平衡の感覚は大切なもので、解剖学的にいうと、耳の一番奥にある内耳のなかの装置、つまり、蝸牛、前庭部、三半器官というものがリンパ液で満たされていて、このリンパ液の変動で、水平の状態が感知される。船酔いや車酔い、目が回るという現象は、この結果だそうで、もしこの装置が故障して、リンパ液の変動が勝手に起こると、頭痛、吐き気、目まい、耳なり、などが現れる。つまり、メヌエル氏症候群という症状でこれはもうりっぱな病気の状態です。
 ですから、人間が、馴れた水平面から、無理に傾けられた状況のなかに持続して置かれると、一種の病気が現れるのも当然なわけで、あきらかにそれは正常な状態ではないと言わなければならないでしょう。
 こうしてみると、坂道というのは、われわれの日常生活のなかで、そう長い間続くものではないけれども、割りと頻繁に、現れてくる一種の異常な状況というふうに考えることもできます。
 登り道、下り道とも、平地を歩くよりは、特別な努力を要するし、未舗装の山坂などでは、起立のまま静止するのも困難だ、ということだけでも、傾斜面は人間にとって、よく出くわす不正常な状況といえると思うのです。もちろん、これはあくまで人間ないし生物にとってであって、自然そのものの傾斜の存在は、地学的には、地上ではむしろ水平面以上にきわめて正常な状況なのだと思っていますが・・・

 <坂は平地の波瀾>

 「坂は、即ち平地に起こった波瀾である」という言葉があります。文化勲章の作家永井荷風が、明治の末年に書きあらわした「日和下駄」(ひよりげた)という有名な東京の紀行文のなかにある言葉です。
 「平地の波瀾」というこの表現に、なるほど、文学者はうまい形容をするものだと感心する人が多いところをみても、やはり、坂道は、一種の日常の異変をもたらす性質のものだということが判ります。傾斜面の異常状況、これを文学的に表現するとこうなるわけです。やはり人間は、こうしてみると、あくまで二次元的な水平面を正常な基準として生きている生物なであって、ピサの斜塔が保存されるの、されないのと大騒ぎされるのも、それが、ひとつの異変だからなのでしょう。
 そういえば、人間にとっての最大の異変、最大の波瀾ともいうべき生死、その境目を、日本民族全体の古典である「古事記」や「日本書紀」では「黄泉比良坂(よもつひらさか)<この文学は古事記で、書紀は泉律平坂>という坂に設定しています。ここでは死者の国と生者の国の断絶の象徴が坂なのです。
 伊耶那岐命(いざなぎのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)の夫婦の神<書紀では伊弉諾尊と伊弉再尊>が、日本の島々やいろいろの神を生んだという神話はよくご存知でしょう。火の神加具土神(かぐつちのかみ)・軻遇突智)を生んだために死んでしまわれた夫人伊耶那美命を慕って死後の国黄泉へ、伊耶那岐命は行かれるのですが、約束を破ってうじのたかった屍体を見たために、追われて現世に逃げ帰ります。
 そして黄泉比良坂で最後に千人で動かせるほどの大岩を障害にひきすえて「一日に千人を殺す」という伊耶那美命のことばに答えて「千5百人を出産させる」と伊耶那岐命はいう。<だから死ぬ人よりも生まれる人が多くて、その後人口がふえることになったとする>そこが比良坂というのは、おそらく平らな、つまりゆるやかなという意味ではなくて、崖という意味ではないかといわれ、そうだとすると、比良坂と岩場の道といった意味になりましょう。もっとも、日本書紀では平の文字ですから、語源的にはとにかく、ゆるやかなという感覚で受け取っている人もいるのかもしれません。

<あの世との境も坂>

 たとえゆるやかでも、坂は、このように断絶を意味することはまちがいありません。坂はサカイつまり境と同じ意味の語源をもつ言葉だとされているゆえんなのです。境というのも、もちろん、あちらとこちらとが、そこを間において、違う場所であることの表示であることに違いないでしょう。
 それをさらに展開して考えれば、日本人にとってそこは境の神、塞(さい)の神のいるところで、峠の神と同様に、異境をへだてる(ところに神がいる。そういうところに神が必要だ)場所のように、その後長く受け取られてきたのだろうと思います。
 なお、黄泉比良坂は出雲の国(島根県)の伊賦夜坂(いふやさか)だといわれていますが、これは現在の八束郡出雲町揖屋町(いやまち)のあたりと考えられ、日本のなかでも出雲は黄泉(よみ)の国の入口のように思われていたらしいのです。

<坂は境である>

 坂、そこは、地形的にも、人間にとって、住みにくい、立ち止まりにくい、しかも通過しくい場所であるかあらこそ、境(さかい)となったところに違いなく、また、それだからこそ、人間に特別の感覚が、生理的にも精神的にも生じたに違いありません。
 このことは、逆にいうと、本来なら人間が通りぬけにくい、あるいは通りぬけるべきではない、そういう場所を敢えて通過するとことに、坂道の意味があるということになります。これは、通過しえざる、崖と人間とのかかわりあいの場所なのです。
 わたしは、道路の設計、建設の上でどの程度までの傾斜が許されるのか、平面の道と坂道とでは、どのくらい工法などに、特別の配慮を要するものかわかりません。しかし、わたしが、坂道をみていると、車両の交通は別として、人間が足で歩く限り、傾斜が急すぎる場合には、その坂道を、小さな多くの水平面に区切ってしまう。つまり、階段状にするのであって、これを江戸では、ふつう雁木坂と呼んでいるのです。つまり、あくまで、水平面を作ろうとする(ということは重力に直行する水面に回帰しようとする傾向にあるのです。

<坂ブームを考えると>

 もともと、歴史畑の人間のくせに、こんなことをいろいろ考えてみるようになったのは、数年前から坂ブームといわれる現象が起こったからでした。いや、坂ブームが起こったから考えたのではなく、考えているうちに、ブームが起こったというほうが、もっと正確です。
 ことを東京に限っていうと、江戸時代のはじめに、地帳といわれるものができて、その土地のいろんな所在物や由緒やその変化などを説明するような出版物ができたその当初から、坂道は記述されています。
 ですから、東京の坂道については、関心を抱かざるを得なかったのですが、この坂道のおもしろさは、わたしが仕事の上で、とくに坂道の多い城南の赤坂や麻布を対象にしていたことも関係が深いと思いますが、私個人の事情は別として、最近のブームの実情は、納得できる気持ちがあります。
 ほかの土地での実情は良くわかりませんが、とくに全体的に坂の多い東京では、しきりに役所あたりの広報紙が続き物にとりあげたり、目印や説明の標柱を立てたり、坂道を歩いてみる会が催されたり、みずから坂狂人と称する人が現れて東京中の坂を番付にしたり、坂専門の本も、2,3冊出版されたりしました。そしてそのことをまた、テレビやラジオ、新聞、雑誌などがどんどんとりあげてブームを増幅した。わたしなどまでが、坂、坂、坂と原稿を書いたり、出演することが続いたのでした。
 東京の市街は、武蔵野台地の東縁にある地域ですから、複雑に開折された洪積層台地を通行するには、上り下りしなければならない坂の数が当然多くなります。これでは、江戸のむかしから市民は坂の関心をもたざるをえないのは当然です。
 しかし、むかしからの事実をみてゆくと、数の多さのほかにいろいろと坂が重視されなければならなかった理由が考えられるのです

<坂の名の効用>

 坂道の機能のひとつは、それに独特の名前がつけられて地名の主要な部分を構成するということなのですが、江戸ではこれはときに重要な働きをせざるをえなかったということが目につきます。
 江戸という町は、参勤交替制の採用で、日本国中の武士のかなりの部分を集めて成立した都市であり、総城下町といわれる内容と機能をもっていました。つまり、市街地の非常に広い部分が、武士のための屋敷によって占められていたのです。
 ほかには、切支丹禁制を主目的として寺請制度によって、寺院がたいへん多くなった。幕府では、何度も禁制を出して、寺院の増加を制限しなければならなかったほどです。
 こういう大名など武士の屋敷(幕府自身の用地や旗本以下の幕府直属の武士の屋敷も含めて)と寺院と敷地(神社もありましたが、すべての神社には神職もいないような小さな祠を除いて、すべて別当寺というものがありましたから、ここでは神社境内を含めて考えてよろしい)とで江戸市街のほとんど8割を占めていたのです。
 残りの面積にして2割ほどが、商人、職人らが居住し、仕事をしている、いわゆる町家なのです。そしてこの町家にだけ町名がありました。ということは、ほかの8割には町名というものがなかったということです。少なくとも公式には、行政上、町奉行の支配の及ばない町屋以外には、町名はついていなかった。これでは不便なのは当然のことであったと思います。
 幕府の側にとってはーということは行政側にとってはということですがー武士の屋敷地は自分のほうで指定して給与するのですから、とくに町名はなくても、大名の名前なり、役職名なりをいえば、それで用は足りたかもしれません。しかしここで生活している一般の市民たちー人口の半数を占めたとおおまかに考えてもいいでしょうーにはとても不便でしかたないでしょう。
 とくにこの市民の多くは、結局は、その武士たちの消費する一方の生活に頼って暮らしているのですから、ひとりの大名が上、下と最低二つ、大大名では上、中、下に加えて抱屋敷(かかえやしき)など10ヶ所以上も持っていたのだし、旗本八万旗はオーバーだとしても、数万を数える幕府の家屋敷の所在地は、地名なしでは覚えすまされるものではない。

<駕籠屋の戒め>

 そこで当然のように生まれてきたのが、里俗の地名という、町名代わりの非公式の地名なのですが、正式の××町○○丁目という町名のほかに、何とか小路、何とか横丁というような地名が非常に多くできた。これらの地名のなかで、もっともよい目標となるのが坂であって、坂のない下町はとにかく、少なくとも、山の手では、坂に地名をつけることによって、町名が足りない少ないという不便を補ったのです。つまり、この坂名を中心とする地名の創出は、市民サイドによる行政欠陥の社会的補完というふうにもいうことができるでしょう。
 もちろん、江戸には、江戸に幕府ができる前の近世以前につけられたと考えられる坂名、地名もありますが、その里俗地名の多くは、江戸時代になって命名されたものであることがわかります。
 江戸時代の江戸の駕籠屋は、下町では橋の名を、山の手では坂の名を覚えろと初心の者を戒めていたそうです。戦前のタクシーでも同様のことはいわれていたそうです。それにひきかえ、近ごろのタクシーの地名を知らないことといったら、これははなはだしい。
 ロンドンだかのタクシー運転者に免許を与えるには、地名をあげて、その最短距離を示せというような問題が出るそうですが、そんなこともないらしい今日の東京では、住居表示のことも手伝ってか、人間がいい加減になったのか、よほど有名な神楽坂みたいな地名しか知らないことが多い。
 話が横道にそれましたが、この駕籠屋の話は、端的に坂道の名の効用を現していると思います。
 そういうかなり重要なはたらきをした坂道の名がしだいに忘れられてしまってきて、江戸時代にはそんなものはなくて住んだ標柱でも立てないことには、人に知られようがなくなったという事実については、いくつかの理由が考えられます。
 どうも話が尻切れトンボのようで恐縮ですが、紙数の都合もあるので、以下は次号でお話させていただきましょう。

2 なぜ坂道は死んだか

<坂の名と町の名>

 坂道が忘れられてきた。その理由は何だったのだろうか。その原因を考えてみると、そのほとんどは、いわば東京の市街の近代化の現象の中に見つけることができると思います。
 最初にあげなければならない理由としては、町名の普及徹底があったということです。江戸時代には、市街面積の8割に町名がないため、実用上から坂名はきわめて頻繁に使われたのですが、明治5年には例外なく(とはいえ宮城〔皇居〕となった旧江戸城の部分は除く)町名がつけられることになって、地名としての坂の名は、その相対的な重要度を失いました。
 すなわち、明治5年2月10日に武家地町地の称を廃するので、新町名を作り、大きいものは丁目をわけ、合併などもするよう布令を出しています。そして、実際には4月ごろから7・8月にわたって、旧来の町地(町屋)、武家地(土地)、寺社地の区別はなくなって、町の起立、合併、合併唱替(となえがえ、つまり合併と同時の町名変更)が行われました。
 こうなると、××〔町〕○丁目で、疑問の余地なく、正確にどんな場所でも現すことができるわけですから、目標としての坂の名が問題になる度合いは、自然とうすれてくることにもなるのです。
 さらに番地がつけられれば、いっそうのこと、精密に地点が表示されます。この前後に地番がつけられたというのは、町名自体の改正が土地の所有権を確認し、税金をとるための地券交付と表裏の関係にあったことを考えれば、形式的にも場所の表示は完璧になったわけで坂名は江戸時代のように所書きなどに使われる余地が全くなくなりました。

<急造町名400余>

 もっとも、このときには、急に多くの町名が必要になりました。旧来の町名のある土地は、全市内の約2割ですから、一躍5倍の面積に町名が要ることになったわけで、とても、すでにある町名を拡大して間に合うというようなもんではない。
 面積に対して、町名の数は5倍にはとてもなっていませんが、それにしても400以上の町名を、短時日で新たに考え出すのは容易なことではなかったでしょう。布令にも「成ル可ク〔里俗ノ〕古名によって耳目に通し易き主ト」して名づけるようにいっていますが、実際上にも、非常に多く存在せざるをえなかった、俚俗称といわれる地名や町名を動員することになったのです。
 田村小路から田村町、四国町(しこくまち)から三田四国町という例のように、公式に町名に採用された地名があるわけですが、そうすると、当然俚〔里〕俗地名のなかには、坂名も多かったのですから、公式町名に昇格(?)した坂名は、麹町の紀尾井町とか麻布の鳥居坂町とか下谷の東坂町とか、いくつか見つけることができます。
 そのことから、逆に坂名を公式町名にしたケースは、ほとんどこの明治5年のときの町名起立によってつくられたと考えてよいくらいだと思います。
 坂名は江戸時代にはむしろ町名とは別格で、明治5年以前の正式町名であったのは、麻布の永坂町や牛込の左内坂町など、僅かな例が見当たるだけなのです。
 それにしても、坂の名の全体の数からみますと、公式の町名になったのは、やはり僅かだとしかいえません。新町名およそ400をこえるうち、新たに坂名をもってあてたもの15ばかりであり、それも東西上中下などをつけて多用した紅梅町や富坂町の例を含むので、総坂名―これを2百余と考えている本もあり、4,5百と考える説もあり、さまざまで、にわかに結論はしがたい。このことについてはのちに触れるーから考えるときわめて少なかったのでした。
 こうして、町名が完備すると、坂名のほうは目標としての機能をすっかり失ってしまったわけではありませんが、地点を明示するという働きはあまりしなくなるわけで、その意義の重要さが、おのずと低下してくるのはやむをえなかったとみることができるでしょう。

<社会増があると>

 町名の普遍化についで、坂名の忘れられる原因として第二に考えられるのは、明治維新ののちに、いったん激減した江戸の人口が、新しい中央集権国家の首都東京となって、また急速に多くの人を集め出したということです。
 なぜ、人は新たに多く集まると坂の名が忘れられるか。正確にいえば、使われなくなるから、忘れられたのと同じになるというべきかもしれません。それは地方からの人口流入が多くなる(いわゆる人口の社会増がある)と、当然、地名などを知らぬ人が多くなる。
 これは老人がなくなって知る人の絶対量が少なくなるというよりも、相対的に、つまり比率の上で知らぬ人が多くなるということですが、知らぬ人が多ければ、坂名を使って物を言っても話が通用しないから、知っている人も、使う頻度は多少減ってくるでしょう。
 新たに東京へやって来た人たちは、戸籍の届けや手紙のやりとりなどで、いやでも関係の深い公式の町名は覚えてしまうし、またそれだけに他の公式町名も見聞きする機会はあるけれども、里俗の地名は、ふだんに使われることが、より少ないから、なかなか覚えられない。
 もともと、里俗の町名というものは、義務づけて教えられるものでもないし、自然と周囲の人から見聞きするうちに、ひとりでに頭のなかに残っていく性質があります。これは一種の社会教育であって、自然感染の現象に似た情報受容の結果だということができます。
 「都会の空気は人間を自由にする」というヨーロッパの都市興隆期にいわれたことわざは、日本の東京にも当てはまる。田舎の小さい地域社会を抜け出してやってきて、都市的自由を満喫している人たちは、隣近所とのつきあいもあまりしたがらない。〔孤独な群集〕と化して、当然、自然感染的に覚えるチャンスは、いっそう希薄になるというわけです。

<人が動けば・・・>

 そして、この第二の理由と似た原因の第三は、都市での定着率の減衰です。定着率というのは、これは私が仮に作ったことばで、厳密な意味はありませんが、そのひとつに含まれると考えているのは、職場と自分の家分離、すなわち、職住分離や、それよりはるかに微少なものですが、買廻り商店商品の増加や盛り場の増加などによる行動圏の拡大です。
 新しい産業の形態と生活感覚の変化は、いわゆる居職人(自分の家で仕事をする技術者)を減少させ、自営の店をも離して、働き場所と住居の一致を許さなくなったし、あるいは一致をきらう気分をも生み出すことになった。そして、買い物も娯楽もだんだん近所だけですまなくなることもふえ、生活時間の大部分が二つの場所にわかれた人たちは、それだけ、土地へのなじみを失います。お弔いに近所の人より会社の人が多く来るのはその典型的な結果です。
 定着率の減少といったほうがよいかもしれません。生涯のうちで、同じ場所に住む年月の平均あるいは住居を移転する回数の変化です。人口の増加で、あきらかに東京の人たちの住む範囲は拡大しました。  こうなると住居の場所の選択の範囲は広がり、土地そのものへの直接の結びつきのうすい都市的産業―農鉱水産業などでない第二次、第三次産業―への従事は、植物のような定着性を失わせます。
 黒川紀章さんのいわれるホモ・モーベンス(動人)という考え方は、これらを指しておられると思うのですが、通勤、通学、買物などで、毎日動くと同時に、生涯的にみてもたびたび住居を変えるようになったのです。
 結婚による世帯分離、世代による住み替え、日本の年功序列制による地位所得上昇の定型化、自由の多い社会競争の結果としての階級移動、個人的は趣味の多様化など、新旧さまざまな理由が働いて、1カ所で生涯を全うする率は、むかしにくらべてはるかに低くなったのですから、これもやはり土地とのなじみをうすくする。
 坂の名をおぼえるにしても、通勤、通学、買物などの定期的通行のある場所だけということになってくる。むかしのように足で歩いて出先を変えて仕事をする出稼人や触れ売りも減ってきて、そういうことも具体的な坂名を知る人を減らしてしまうでしょう。
 逆に郵便配達、デパートの配送のように、地域専門の通行人もふえたが、これは人口密度もあがって厳密な町名地番と昔とは比較にならない頻繁さで歩くから、まどろっこしい里俗地名などに頼ることはない。 こうして、土地の人との交際はますますうすく短くなる一方で、坂名などを知る機会そのものが減ってしまったのです。

<坂が感じられない>

 以上のような条件が,基底的な社会変化の坂名を忘れさせる理由だとすれば、次に述べるのは、もっと直接的に坂道そのものの存在を気づかなくさせてしまう条件ができたということです。
 第一に、舗装の徹底が、坂道で感じる人間の身体的な困難を減少させた。雨でも降って路面がゆるんでくると、昔の坂は、いっそうのこと昇降を難しくした。すべり坂(四谷信濃町・麻布)、転坂(ころび)坂(赤坂)、なだれ坂(麻布)、難歩坂(赤坂)などとあるのは、文字どおり歩行通過に難渋するというそのことを坂名にしたからなのです。
 おそらく、現在の東京市街地で、雨がふるから上りにくいなどという坂があることなどは、とうてい考えられず、もしあるとすれば、それはもう道ともいえない場所に違いない。それは坂であっても坂道とはいえないくらいのものでしょう。昇降困難が感じられなければ、そこは坂とは気づかないということなのです。  昇降が楽になったといえば、舗装よりもっと大きいのは、車、とくに自動車交通の発達でしょう。歩行者天国かラシュアワーの駅界隈でもない限り、大抵の主要な道路は、自動車に乗って移動している人のほうが歩いている人より多いのです。
 車に乗ってしまえば、坂の昇降にともなう生理的困難は全く解消してしまったといってもいい。今の東京で車の中にいて、肉体的な傾斜感覚ではもちろん、エンジン音などでも、気がつくほどの急斜面に出合うことは大変少なくなりました。
 同じ車輌の交通でも、昔なら、人間のひく大八車のあと押し代が三分で三分坂(赤坂、さんぷんと読む。銀1匁の10分の3で約百円の意。金高だからといってサンブと読んでは5万円以上になってしまう)と名前のついた坂があるし、牛車をひく牛が悲鳴をあげるので、牛鳴坂(やはり赤坂)といったことなどがありました。
 しかし、いまはガソリン燃焼のエネルギーを使うには、酒手をはずむ必要もなく、エンジンの悲鳴も気にはならないから、坂も忘れられるといったわけのものでしょう。

<海のみえない潮見坂>

 そしてさらに、これもたいへん重要な理由だと思うのですが、坂の坂たる認識の非常に大きい要素となっていたのは、坂下から登ったときに、それまでとは全く異なった眺望が開けるということであったのです。  その証拠に、江戸見坂(赤坂)とか潮見坂(各所に多い)とか 富士見坂(これもたいへん多い)とか、葭見坂(高輪)など眺望そのものを坂名にしている坂の名が少なからずある。
 その事実にひきかえ、それらの坂の現在の実態はどうか。その名の示す眺望を今でももっている坂は、ひとつでもあったらお目にかかりたいくらいのものです。
 建築の技術が発達し、産業人口の都市集中に呼応して、日本にも続々高層のビルが建つようになりました。たかだか2〜30mの武蔵野台地の標高差くらいは、手もなく凌駕されてしまっていったのです。いかなる坂の高さも、とうていこれにはかなわない。むしろ、谷の底かと感じる坂上もあるようになったのです。  低地に突出してその眺望をほこり、男坂 女坂 新坂でようやく登った愛宕山上(港区)も、今はビル群の建物の内に溺れている感じがしています。
 坂が境である、その異境感というものはまず第一に、視覚にとびこんでくるものだと思います。その視覚の変化が妨げられては坂の境たるゆえんが大幅に減る。境は坂ではなくなったのです。
 以上のほかにも、坂そのものが道路工事をはじめとする都市の変貌で消失してしまったり(赤坂葵坂その他)傾斜の度合いをはなはだしくゆるめたり(麻布永坂その他)しています。これらの工事も坂の意識を人の心から消失していったものといえるでしょう。

付記 明治初年の東京での町名の変化は維新直後に始まって、実に錯雑を極めたものでした。大きい動きはここに触れた明治5年のもののほかに、明治11年の大合併があります。これらを詳しく説明しないと、町名や地名、従って坂の名の数などの数え方はわかっていただけないと思うのですが、たいへん紙数を要するので、いまはこれまでにとどめておきます。この点からしても坂の位置の確定や新古町名の確実な照合は簡単なうようで、実はたいへんな作業になるわけです。必要があればそれに応じて、その都度説明したいと思います。
3 復活の記念碑

<坂の碑のはじまり>

 東京の港区赤坂1丁目10番1号、アメリカ合衆国大使館の道路に面した一角に、坂道に記念碑が建てられました。昭和42年10月11日のことです。  地元、赤坂の奉仕団体、赤坂ライオンズクラブが施主で建てたものですが、その建設に当たっては、とくに位置や坂名の由来の考証の立場から、協力を求められて私はこれを監修しました。
 どなたの発案であったのか、そこまではよく知りませんが、時期からいっても、おそらくこれが東京での坂道ブームのハシリではなかったか、と思います。つまり坂道を見直そうという動きのはじまりです。
 それまでは坂名の記念碑などというものはもちろん、標識のごときものは、ほとんどありません。もっとも絶無というわけではなく麻布の新富士見坂〔南部坂〕にはその名を刻んだ石柱が、おそらくはこの坂が新たに開かれた明治40年代の前半から建っています。
 この種の例は、ほかにもあるかもしれませんが、明治末年は、ちょうど、東京の大都市化が進みはじめたころで、東京と地方の間や、東京内部での人口の流動が激しくなり、先月号に述べたような理由で、坂名が自然には、知られにくくなっている事情と相応しています。
 それにしても、これは明治以降新たに拓かれた坂道だから、こういうことになったので、むかしから名称のある坂道は、それ自体が標識であり、名前も告知するような設備もないままに知られていったのですから、標識などないほうが自然だったと思います。
 ただし、戦後も私の知る限りに千代田区(東京)では、昭和34,5年ごろには、りっぱな木の標柱をあちこちに建てられています。それも、上等の将棋の駒のように、木に文字を彫りこんで、墨を塗りこんだ大そう手のかかったものでした。
 ただ、この標柱は、かならずしも坂の所在だけを明にしようとされたものではないらしく、数多い、区内の見付〔江戸時代の江戸城の範囲を示す番所のごときもの〕や、城門跡などにも建てられていますから、むしろ、区内の由緒ある史跡などの地点を明示しようとされたのでしょう。由来の説明などもついていません。  その点、正確に言えば、今日につながる坂道ブームの意識とは少し違うのかもしれませんが、結果的に標識があることに変りはなく、見るからに、江戸城を含む都心千代田区にふさわしい施設で、私は感心して眺めておりました。それに、千代田区の当事者の方たちは、その後港区や文京区がいまさらのごとく坂の標識と行って騒いでいるのを苦笑していたのではないでしょうか。

<三つの坂の由来>

 ともあれ、アメリカ大使館前の坂の記念碑は意識的に、坂をもっとみんなの気持ちの上によみがえらせようという意図がはっきりしています。
 当時、歴史上、美術上、自然科学上、貴重で意義の深いものだけが文化財として値打ちがあるというふうに考えていた一般の風潮に対して、庶民が思い出をもち、関心を高めたいと考えているそのものには、やはりそれはー文化財といっていいかどうかはわかりませんがーそれなりの値打ちがあるものだと考えなければならない、と行政の側としても大事な姿勢を気づかせてくれたように思います。
 この記念碑の建っている場所は、ちょうど三つの坂の交会点になっています。坂道の多い東京の山の手でもこういう場所は、そうたくさんあるものではありません。
 都心に近く、交通量も昔から多かったと考えられますので、坂の名称も江戸時代の初期からつけられており、四通八達している道の三方をはっきり区別する必要は現実だったことでしょう。そして、そういう場所だけに多くの人に覚えられやすかったということもいえます。
 ここに集中する榎坂、霊南坂、汐見坂の三つの坂の名称のうち、汐見坂というのは、あるいは江戸時代よりも前と考えられないこともありませんが、しかし、可能性からいえば、ここから海を眺められるといえば、やはり、江戸に人口が集中してからであろうと考えたほうが納得がいきやすいのです。
 江戸時代より前なら、このあたりどこからでも海が見え、とくに汐見という必要はなさそうです。そして汐見坂とは、単に海が見えるという以上に天候や漁協のために積極的に海を眺めた坂という意味があるのかもしれません。ただ汐と潮をとくに区別して書いたとは思われません。江戸時代の地図は木版に彫るものですから汐とするほうが楽だったようです。「江戸名所図会」という有名な地誌も本文では潮見と書いています。 
 榎坂については、その由緒が3説もあります。榎坂は藩主浅野左京大夫幸長(赤穂浪士で有名な播州赤穂の浅野の本家に当たる)が幕府に恩返しのためここのところにダムを作らせられた。そのとき家来の矢島長雲という者がこの工事を担当していろいろと工夫をこらして、ようやく完成したので、のちに人にいわれて、苦心の記念に榎をたくさん植え並べたのだといいます。
 このことをいっている「紫の一本」をいう本は天和3年(1683年)に作られたもので、江戸の地誌としては非常に古い部類に属し、その当時すでに、ようやく榎は3,4本残っているきりだったと記しています。

<異説榎坂由来>

 しかし、この種の話には異説はつきものであって「再校江戸砂子温故名跡誌」(明和9年、1772刊行)では、むかし6本の榎があった。いまはそれが枯れて若木になったが、元来これは桜田の住民箕輪氏が自分の地所に植えたもので、箕輪榎ともいったのだと書いているのです。
 桜田というのは、いまは桜田門として警視庁の異名のように使われている地名ですが、江戸時代以前からのこのへんの村の名称でした。もちろん範囲はずっと広く、現在の日比谷から霞ヶ関、新橋、愛宕のへんまでを含むものだったようです。
 その村民箕輪氏は、先祖が甲州の浪人で、霞ヶ関へんに住み、天正年間(1573〜92年)から名主になって関が原や大坂夏・冬の陣に貢献したといいます。その村人たちが江戸城建設計画の必要上、現在の虎ノ門や新橋近くへ、さらにのちの麻布のNETテレビのへんに移されてからも、幕末まで続いた家柄で、まんざら無根のこととも思えないふしはあるのですが。「紫の一本」のほうがはるかに古い記述だけに、やや軍配は浅野家のダム完成記念説のほうに上がるような気がします。
 ダムというのは、江戸城の外濠と上水道用の水源を兼ね、そして家光が幼少のころ泳いだり、鯉や鮒を琵琶湖から取り寄せて放したり、また蓮を植えて花をめでたり、蓮根を採取したりという、いわゆる多目的ダムとなったため池(その名からもわかるとおり人工湖)を造るための堰堤だったわけです。
 おおよそ今の不忍池に匹敵するくらいの広さの池というか濠というか、湖ができたいたのですが、明治維新後江戸城防備の必要もなくなったかして、いまの特許庁のところに工部大学校〔東大工学部の前身〕を建てるために、ダムはつきくずされ、溜池は干上がって沼になり、小川になり溝になり、ついには暗渠になって地上から姿を消しました。
 今山王下の赤坂側のところに溜池というバス停留所名になって名前だけ残っているものです。矢島長雲の苦心も跡形なく、そこには現在外濠通りという幹線道路があり、左右にホテル、キャバレー、ビジネスビル群がひしめいている状況です。

<「余の木」の聞き違い>

 ただもうひとつつけ加えたいのは、ダム記念説あるいは箕輪榎説とは別に、ここは江戸時代になる前の(おそらくは奥州へ通ずる奥州街道)の通路に当たっていて、その印に植えた榎があったところだから、榎坂と考える人もあります。
 しかし、古い奥州街道は、品川から高輪の二本榎を経て、三田綱坂、赤羽の榎坂を通り、狭義の江戸へ向かっていたという状況はわかっており、そうすれば、ここはダムの適地となるような溜池の谷の狭い出口ですから、なるほど、ここら辺りを渡って霞ヶ関から麹町の台に上がっていたと考えてもあんまり無理な話とはいえません。
 しかし、強いていえば、ちょっとこの説が怪しいのは、ほかに史料や口承に伝えられる奥州街道は、榎坂からソビエト大使館のある狸穴から六本木へ通り、ずっと青山まで抜けて、そこから青山通りを赤坂へ下り、赤坂見付へんで麹町の台地へ抜けていたというのであり、そのほうが、たしかに溜池の口、いまの文部省へんを通っているとするよりは地形から考えても自然なのです。
 結論は申しませんが、私は少なくとも、この榎坂は、江戸時代になってからの命名という説のほうをとりたい気がします。
 街道の榎説については、ある将軍に、街道筋には何を植えましょうか、松にいたしましょうかとお伺いをたてたら、余の木(ほかの木)にせい、といわれたのを榎と聞き違えて植えてしまったという説があります。そうすると榎は江戸時代になってからで、榎が街道の跡という証拠にはなりませんが、どうもこの余の木説は作り話らしい。しかしわりと有名なので、付け加えておきます。この榎は明冶にはいってから全部切倒されたといわれます。

<坂名も改宗?>

 さらにもうひとつの霊南坂というのがありますが、これは由来がはっきりしています。江戸市街がまだ小さかった江戸時代初期のころ、このところに嶺南というお坊さんが慶長15年(1610年)に庵をひらきました。嶺南庵というのです。
 嶺南和尚は、三代までの将軍に尊敬された高僧でしたが、江戸市街の拡大にともなって、その庵を、寛永13年(1636)当時の郊外であった高輪に移し、東禅寺と称しました。もちろんこの和尚の名からとって坂の名ができたわけですが、嶺の文字が難しかったのか霊の字で書くようになりました。さらに、もっと略して木版地図ではと書いています。
 今はキリスト教会があって、霊南坂というのは教会にいかにもふさわしいネーミングのように聞こえます。芸能人の結婚式などがあって有名ですが、しかし、起こりはむしろ、仏教にゆかりの坂の名だったわけです。実際の霊南坂教会は、坂名からとられた霊南坂町という町のなかにあったのですが、〔今は赤坂1丁目〕、霊南坂という坂そのものよりは、少し離れています。教会の横にも鼓坂があるので、これを霊南坂とまちがう人もあるようですが・・・・。
 三つの坂の名の由来が長くなりましたが、話をもどして、ここに坂の記念碑を建てるという話を聞いたとき、たしかに絶好の位置ではあるけれども、はたして実際に建てられるかどうか、私は大変懸念しました。というのは、道路敷は、最小限の歩道がとってあるのが精いっぱいで、とうてい記念碑を建てる余地がありません。
 どうしてもとなれば、アメリカ大使館の敷地をわけてもらうほかないのですが、何といっても大使館の敷地は治外法権であって、極端にいえばアメリカの領土の同様なところです。
 はたして、アメリカ大使館ないしはアメリカ政府がウンというかどうか。単に敷地内に建てておくというのなら、さほどでもないでしょうが、通りかかる人に見られなくては記念碑の意味はありませんから、外部へ敷地を解放してもらわなければなりません。いわば領土をよこせみたいなもの、私も成否を危ぶんだのですが、ライオンズクラブには十分成算があったらしい。
 やがてアメリカ本国政府の訓令もOKが来て、そこで今日見られるような記念碑が建ち、囲いが下がってその部分の土地は外に向かって開かれたのです。僅かばかりの面積ではありますが、アメリカもかなり気を使ってくれたものと思います。
 ひとつには、地域の実業家で結成するライオンズクラブはアメリカに本部をもつ団体であることが幸いしたのかもしれません。

<国栄えて坂道亡ぶ>

 この除幕式のとき、アメリカ側を代表してデービット・L・オズボーン公使が行った達者な日本語のあいさつは大変印象的でした。
 「国破れて山河あり、というのは中国の古い詩であるが、いまの日本を見ていると、国栄えて坂道ほろぶ、だと思える・・・・」
 つまり、高度成長にはいった日本は土木工事などで容赦なく傾斜地などをなくし、舗装を発達させ、坂道を忘れさせるのに汲々としているようにみえる。しかし、それかけにこのような記念碑を建てる試みは貴重である、といった意味でした。
 そのことばを聴いて、居並ぶ人々は大いに共感を覚え、またライオンズクラブの人たちは大いに満足したようでした。
 そこで、なぜ、この時期に、坂道を思い起こし、見直させるような動きが出て来たのでしょうか。そのへんを考えてみる必要があると思います。
 この記念碑のできた昭和42年といえば、高度成長万能の思想、パイを大きくすればすべての人への配分が大きくなるという素朴な考えに日本中がはりきっていた頃だと思います。まだ郊公害もさほど問題にならず、所得倍増、GNPに酔っていたのですが、しかし、このころ、すでに身近な郷土を見直そうという動きとして坂道を思い起こす考えがでてきたのは大変興味深く思います。ひとつには、衣食足って懐古の気持ちが出て来たともいえます。昔、あれほど親しみをもっていた近隣の坂道、それがどうやら忘れられている。史跡のように話にきき、物の本で読んだ歴史でなく、自分たちの直接経験できた昔、それを懐かしく思い出したいという気持ちになるのは無理はない。
 ライオンズクラブは、地域は依存する団体だけに、何をもってその気持ちを表現するか、ということになったとき、赤坂と地名そのものに坂の名がつく場所で、大変多くの坂道をもっていることに気がついたのはある意味では当然だったかもしれません。
 しかし、坂道復興を推し進めたものには、ひとりライオンズクラブの気持ちものみならず、もっと東京全体、あるいは社会全体の事情が作用していたように思われるのです。

4 ダブル・スタンダード

<坂を愛した先覚者>

江戸で、坂の名前が盛んに使われた理由、そして、東京になって、坂の名前が忘れられた理由をすでに書いてきました。
 つぎは、坂の名前が近頃、よみがえってきた理由というものを述べなければならないだろうと思います。
 よみがえりの兆しについては前にも少し触れました。人々の心に、なぜ再びクローズアッピされてきたか、その理由を考えることは、社会の動向を知ってそれを行政へ反映しようとする努力のよすがにもなるかもしれません。
 坂道の興趣は、古く60年余の以前、この連載の冒頭にも記した、東京の土地がらに関するエッセイ集「日和下駄」のなかで、永井荷風が、切々と述べているとおりであり、すでに先覚として近所の人も名を忘れた坂名のことをいい、そして、「どうか東京市の土木工事が通行の便利な普通の坂に地ならししてしまわないようにと私は心密かに念じてゐるのである」とまで結んでいます。
 この「日和下駄」の文章を愛する人の多かったところを見ても、同感の思いにふける者は東京市民のなかに決して少なくなかったと思いますが、やはり、本格的な坂道の復権は太平洋戦争後の高度成長のさなかから起こっているように思います。

<坂道再発見>

 まず、人口の都市集中が極度に達し、都心部の人口が増加から減に転じはじめたころ、コミュニティ・ケアだとか、地域社会だとか、都市孤老だとか、そのような基本的な人間の地域的協同が問題になりはじめました。「隣は何をする人ぞ」という閉塞的はウワサ社会、または地縁的共同社会からの解放を喜んだ都市への流入人口や、世代住み替え、持ち家の普及、その他の既述のようなやむを得ない都市内移動などの地域社会への新規参入人口は、全部が全部とはいえないかもしれませんが、改めて近隣社会への関心が、生活の実益、極端な場合は生存そのものにつながることを意識し始めたのです。
 事実として、生活環境の劣化はこのころからはなはだしくなり、暮らしを阻害しているものは何か、どうしたらそれをとりのぞけるか、身の回りの生活空間を見直してきたときに、ふと、心に意識されたもののひとつ、それが坂道であったということができるでしょう。坂道が、特別に住民運動の対象になるような公害などにつながるケースはあまりなかったと思いますし、むしろ住民運動参加者とは別種の人がたちが関心を呼び起こしたということもできるかもしれませんが、総体的にみて、坂道の再発見、すなわち国鉄の有名なキャンペーンのうたい文句をまねていえば、ディスカバー・スロープスとでもいうべきものが、地域社会への関心と密接な関係にあることは否定できないと思います。
 そのいっぽうで、高度成長は物心両面に余裕を生み出したことも事実です。それはただ大げさに、海外旅行やゴルフ、ヨットといったような大型レジャーを生み出しただけでなく、小型の身近なレジャーも、無数にもたらしたと思います。現に、私の知るある郷土史のファンはなぜ郷土史を調べるのですかという私のいささか性急な率直な質問に答えて、ゴルフなどほど金がかからないのも事実ですが、私の性分にあっているからです、と答えていました。
 こうしてみると、一面、経済的余裕が坂道への関心を呼び起こすとともに、逆に石油ショック以来の不況節約ムードが、身近なものの再発見をうながしたともいえるでしょう。人々はいったんおぼえたレクリエーションの楽しさは、もう二度と忘れようとはせず、費用を切り下げても、もっとできる楽しみはないかと考えるようになるのです。そうしたとき、極端にいえば、自分自身の足もとで、何の費用もかけず、歩きまわることだけでも成り立つ坂の趣味は、もっとも不況時代にふさわしい。
 坂道は土地に関することですから、分類してみると、まず第一に、郷土史あるいは地方史、地域史というものと密接な関係があるわけですが、好不況にかかわらず、個人の趣味は、セグメンテーション(細分化〉の現象を起こし、なるべく個性的な自分独特の趣味をもとうとする風潮におされて、地域史なら地域史のなかでも、坂道のような、これまで比較的問題にされなかった分野に着目する人が出てくるようになります。調べてみると、その名の由来にしろ、景観の変遷にしろ、いろいろと紆余曲折があって、確かに興味のもちがいのあるおもしろさです。
 趣味の楽しさには、ギャンブル、競技、勝負事のように競うものと、いろいろ調べて知識、技能、経験を身につけるものと二通りあると思いますが、坂道愛好はその後者に入るでしょう。

<卒論のテーマに>

 それにしても、源友雄さん〈1月号の坂番付の製作者〉のような坂研究家が現れても、私は、その執心ぶりに驚き、また敬服こそすれ、さほど意外ではありませんでした。そのような下地は、過去の郷土史ファンの増加ぶりからみて十分うかがわれたからです。
 しかし、坂道を卒業論文のテーマにしたいといって、国士舘大学の女子をまじえた三人の学生が、私の務めていた資料室へやってきて相談を持ちかけたのはちょっと予想していなかった出来事でした。
 確か昭和44年ごろのことだったと思います。この人たちのほかにも、大学の卒業論文に対して助言や資料を求めてくる学生があるのには慣れていましたが、坂道というものが、大学の卒業論文の対象になるようなシリアス…生真面目なといってはヘンですが…なものかどうかちょっと判断がつきかねたのです。
 今になってみれば当然、人文地理学的にみても、都市社会学としてみても、都市工学としてみても、坂道はテーマになりうるものだとためらいなく思っていますが、そのときは、趣味的な研究ばかりに接していたので、いささか戸惑ったわけです。しかし卒業論文の世界でも、どんどん新しい分野が開け、またセグメンテーションが起こっていたことを考えると、むしろ彼らの坂道を学問的に扱おうという着想は、先覚的なものであったかもしれないと思うのです。
 この時、思い直した私は、彼らに、坂から考えられる観察点の要素をいろいろあげておきました。たとえば、坂の抽象的な要素から具体的な要素へ、自然的は要素から社会的、人文的要素へ類別した見方です。 坂は単なる傾斜面ではなく、そこが人の通過するが故に坂と名づけられ存在理由があることを考えると、物理的条件だけでなく、心情的な条件を大きく考慮しなければならないことがわかります。
 傾斜、幅、長さにはじまって、路面状況、開発時期、種類別通行量、坂の上・中・下の街況の変化、眺望の変遷、名称の起源、付近居住者、通勤通学者、不定向通行者の坂名その他の周知度、坂にまつわる習俗などと、それらの間の相関度や因果関係、法則性などが発見できればおもしろいと思ったのです。

<回顧する人々>

 実際問題として、とっさのサジェスションではあり、できあがった結果も最終的には十分見せてもらう機会を失しましたが、あたかも、これは坂道への関心の頂点のひとつであったかの印象を受けました。
 このような趣味あるいは学問的な研究のほかに、もうひとつあげられるのは、高齢人口の増加にともなう回顧の風潮があると思います。今日の老人たちは、30才、40才の働き盛りを、生命を的にした激しい戦争と、食うや食わずの生活難との戦いで過ごし、そして脇目もふらずに経済の高度成長に貢献し、ようやく平均寿命の延びという恩恵に浴して生延びてきた人たちです。
 仕事の第一線から引退したとき、この人たちが夢中で過ごした生涯のうち、物心ついたころの過去をかえりみようとするのは、当然のことと思われます。「のらくろ」の漫画や竹久夢二の絵や、食べ物で田舎風のお袋の味がもてはやされるのとかなり似た理由追わない頃身近だった坂道、いつか忘れていた坂道のことを、なつかしく思い出したのは、至極当然のことではなかったか。
 もはや空も常に薄ぐもり、星もさだかに見えかねる都会では、むかしの天然の風物をみつけ出せるのは、極めて僅かに残されて樹木とそして坂道ぐらいしかないのです。そのほかのものは、鳥も虫も、道路も建物も、なんとかわったことか。身近の寺や社さえも旧状を残すものは少ない。坂道はその中で、周囲は著しく変わったとはいえ、今もなんとか坂であってくれている・・・・。

<住居表示の貢献>

 以上、身近な地域社会への関心の回帰、趣味の多様化、学問の幅広い展開、高齢者の回顧、こういったところが、坂道復権の理由として考えられるのですが、さらにもうひとつ、かなり具体的な要求に基づく坂道―性格には坂名―のニーズが生じていることもあげなければなりません。その原因は、新居住表示の施行です。
 ご承知のように、新しい住居表示は従来に比較してきわめて大きい町名の面積単位をとって、あとの細分化された表示は3段階の抽象的は数字の標識にまかせてしまいました。きわめて論理的、合理的なやり方であり、これで格段に都市平面上の位置の表示は正確、確実となりました。
 家や地点を探して歩くと、いかにこれが利便をもたらしたかがよくわかります。しかし、人間はそれほど記憶力がよいものではない。ことに抽象的は数字を覚えるのは、具体的な町名を憶えるのより、はるかに困難さを感じます。
 そして、記憶の困難さは、さらに識別の困難さに転化します。三田3‐25‐16と三田2‐35‐18とを比べて記憶するのと、芝浦新町17と三田綱町9とを比べて記憶することを考えると、もちろんだれにも後者の方がずっと楽でしょう。書き間違えの心配もはるかに少ない。ニューヨークのフィフス・アヴェニューみたいになってしまえば、数字の町名もそれぞれ楽であり、池田弥三郎慶大教授は、冗談半分に、どうせ数字にしてしまうのなら、早く銀座は100番とでもつけてもらったほうがいい、と私に漏らされたことがありましたが、事実上、論理的、抽象的思考や記憶が苦手らしい日本人は、どうも数字が4つも5つも並ぶと区別もしにくいし、憶えるのも難しい。
 そこで数学に置き換えた部分が広すぎるあまりに、坂名がまた生き返ってきたように思われるのです。ごく簡単な例が、港区六本木5丁目16番45号の港区役所麻布支所。これは私の1年3ヶ月前からの勤務先ですが、いまだにその所在地がいっぺんで思い出せたためしがない。現にこれを書いているときも、45番と書くまできたが、あとが続かず、自分の名刺を取り出してみて、まちがいと、続きが分かりやっと正しく書けましたが、これは私の頭の構造がいけないのかもしれない。しかし、もし坂を知っている人になら麻布鳥居坂上と、これまで一発でわかる。たいていの頭の構造の人でもまちがえようたっても忘れようたって、容易にまちがい、忘れるものではない。鳥居という具象的な名詞を冠しているだけに、そのあたりの様子まで目に浮かぶ。5の16の45ではそういうわけにはまいらない。

<坂名に人工呼吸>

 住居表示の数字に対する坂名の具象性のために、坂が復活する理由があるだろうという筋道は、以上の実例でおわかりかと思いますが、しかし、さらにもうひとつ坂道の蘇生の効果をあげた理由が、新居住表示にあると思います。それは新居住表示が街区方式、つまり、道で区画された市街のブロックごとに町名をつけられているということです。これもいろいろ研究された結果であるらしく、たいへん理屈にはかなっているが、実際には通りの左右の町名が違ってくるという、道を通らないと、よそへは行けない人間には、少し不都合なことがある。バスの停留所など同じ路線で違う名称はつけられないから、三田3丁目に芝5丁目という停留所があるようなことになる。四つ角の信号のしたに下げてある交差点名の表意など、四つ角が全部違う町名(丁目も正しくは町名のうち)なので、表示と町名が合っているのは一ヶ所で。他は3枚とも違う町名のところに下がっていうような例も多い。
 そういうとき坂がありさえすれば、妻恋坂というふうに信号の下に下げてあるのを見ると、少し神経質すぎるのかもしれませんが、私は納得するのです。
 私自身、決して新住居表示の精神というか意図というか、それ自体には反対ではありません。たしかに歴史的に町名、地名を見てきて、急速に近代化した東京では、一時はつらくても新しい住居表示を採用しなければならない必然性はあったと思います。
 ですが、実情はかくの如く、ほんのワラ半紙分の地図一枚で、山の手線内くらいの範囲のアドレスがたちどころにわかるパリなどと比べて、東京はその15分の1くらいの1区がワラ半紙大の区分地図でもなかなかわかりにくい。新住居表示でも、図上では整然としたが、現実には「六本木交差点から東京タワーに向かって、二つ目の信号をロアビルのところでディオールの店のあるところを右へ曲がり・・・」などと説明しなければならないのです。
 近ごろ、日本人の欠点のようにいわれた本音と建前を、公然と認めるほうがむしろ便利だというような、ダブル・スタンダードの思想が起こっているそうです。つまり、純理的はメートル法に対し、尺寸も認めろというのが代表的な例です。寸尺はインチ、フィートと近似の長さであることからもわかるように、人間の生理的寸法にフィットしたところがあります。ある意味でこのほうが理に合っている。つまり純理必ずしも合理ならず、という反省がダブル・スタンダードの考え方にはこめられているように思います。
 話が横道にそれたようですが、坂名のよみがえりはこの地名に関するダブル・スタンダードの再認識かもしれません。
 そうだとすれば、新しい住居表示は、都市化の波におぼれて死にかかった東京の坂の蘇生に人工呼吸を施してくれたものだということができるでしょう。坂名の方は、メートル法と違って古いのをわざわざ標識など使って知らせたりしても罰せられることがないのは幸いです。

5 坂名の七変化

<坂名に区の標識>

 以上、述べたような理由から、坂への認識が改まったとも思うのですが、そういう復活のきざしを、行政の側で、はっきりと受け止めたのが、東京の、坂の標識だったということができましょう。
 ちょうど、港区と文京区とは、同じ頃に企画を立てたようにみえます。別に相談したわけではなく、どちらかが真似をしたというのでもない。しかし、これは、たんに偶然の一致ということはできません。
 前述のように、あきらかに無言の社会的要請はあったわけだと思います。それは、住民運動のように、直接的は行動の形をこそとっていませんけれど、潜在している要求を敏感に感じとった役所が、行政需要とみなし、それにこたえようとして、こういう施策をあみ出したためと考えてよろしい。
 それだからこそ、坂の標識が、新聞やテレビなどマスコミにも盛んにとりあげられて、いっそう坂道への関心の増幅に拍車をかけたのだと思います。ただの役所の思いつきが、これほどのブームを巻き起こしたのではないに違いない。受け入れる素地が世の中にあったからに違いありません。
 これに気づいたのが、港・文京の両区というのにも必然性があったと考えられます。この二つの区が、坂の多い東京のなかでも、格段に多くの坂をもっているのです。
 これに、早くから表示杭を立てていた千代田区を加えると,ちょうど3区が南北に並んで坂の標識が出揃ったことになります。3区はまさに本郷面、淀橋面などと区分される台地面の端部にあたっており、不忍台、湯島台、山王台、三田台などを含み、洪積層武蔵野台地の開析された辺縁を形成する位置にあるのです。
 こうしてみると、坂の標識の建設は、できるべくしてできるべきところにできた、いわば自然の成り行きのようなものであったといえるのではないでしょうか。

<標識の立て方>

 写真で見ていただくように、文京区の標識は、金属の板に、文字を焼き付けたものです。たいへん立派で、洒落たデザインです。路傍では、いろいろの道路標識が多い中でも、特に目立ちます。説明も詳しく、由来のみならず、付近の景況にまで内容がおよんでいるのがあります。
 これに対照的なのが港区で、棒杭の形をしていて、墨書きでニスの上塗りがしてあります。これにも、そう長くはないが、名称の由来書きがついています。文字を書く面積と路傍で読まれる文字数の限界を考えたそうです(博物館前で、説明文を読むマキシムを調査したものがあって、子ども連れの母親が一番熱心に読み、最も読まないのが男女のカップルだといわれます。)工作としては、雨水のしみこみを防ぐために頭の部分に銅版のおおいをかぶせ、干割れ防止のために、あらかじめ本体に縦に割れ目をいれ、埋木をしています。
 どちらの形式をとるかは、施行者の好みと考え方の問題ですが、文京区は昭和47年度から4年間で51ヵ所、港区は昭和47年度と48年度で80ヵ所を立てたことになっています。
 両区にある坂の数は、実はもっとずっと多い。坂名のあるのだけをみても、はるかに標識数をこえます。その点、標識がこれだけで留まっているのは、もともと、あらゆる坂に立てるのが目的ではなく、比較的重要な多くの人に知らせる意義のある坂道を選んだからでしょう。税金を使うからには当然の配慮だともいえます。
 その実際を見ますと、現実に標識を立てるのが技術的に困難な例、たとえば路傍に見てわかるように立てるだけの余地を見つけるのが困難だったり、見通しその他の点で、危険が予想されたりする場合があります。 それから、立てることが殆ど無意味な例、たとえば、事実上行き止まり同様になってしまっていて通行人も殆ど無く、周知の目的に沿わないような坂道もあります。
 また、芥(ごみ)坂とか幽霊坂とかネーミングの意味が、どうも悪くて、現実はその名称の実態がない上に、近所の人たちにも知られる必要も少ないというのもあります。さらには、立てることができたとしても、思わぬ障害があって、意図に反した立て方をしなければならない場合も出てきます。

<大使館は坂のそば>

 港区は、東京の各区の中でも圧倒的に外国公館が多くて、96カ所ほどもあり、総数181ヵ所の半分以上を占めています。
 これが、ひとつの区の特色になっているくらいです。その大部分は国家の威信をかけて優れた環境の場所を選んだ結果だと思いますが、傾斜面に近い台地上にあって、往々に坂道に接しているのです。
 前に、坂の記念碑に関して触れた、赤坂の霊南坂、葵坂に接するアメリカ大使館も、そのひとつにほかありませんが、ちょっと考えても、ソビエト大使館と狸穴(まみあな)坂、ドイツ大使館と南部(なんぶ)坂、フランス大使館と青木坂、フィリピン大使館とお多福(おたふく)坂、オーストリア大使館と暗闇(くらやみ)坂などのように、すぐ思い当たる例が多い。
 実はこういう大使館のそばも、なかなか難しい。はじめは、坂の上下で立てて邪魔にならぬ位置、人に見えやすい位置ということで選定し、そこに向くように文字面などを考えるのですが、いざ立てようとすると、その場所に問題が出てくる。
 実際に、坂道は公館敷地の横側に当ることが多く、外国公館の見通しのきかない塀のそばということになりがちであって、もし何者かがその内部を伺い闖入するとすれば、格好の足場になるというわけです。
 たいへんもっともな苦情であると思います。立てるほうもそこまでは思い至らなかったというのが実情ですが、理由が理由だけに、よんどころなく位置を変えますと、どうしても当初の計画と異なって、説明文があらぬ方に向いたりして、標識としての効果が減殺されることにもなる・・・・。

<問題続出の考証>

 このように、単に立てる位置、向き、形状などだけでもたいへん苦心を要するわけですか、もっと、根本的なのは、立てるべき坂道の選定だと思います。
 しかし、それもどの坂に立てるかということだけなら、現地の状況を実見して、決めればいいのですが名称をまず、確定してかからなければなりませんから、その点が実は意外とたいへんなのです。
 その坂道を、そう読んでいるのが正しいかどうか、異称はないか、もし異称があればどう処理するか、付近の同名の坂とまちがってはいないか、文字はどう書くのが最も適当か。そうなると、当然由来の考証にまで手を広げなければなりません。
 そして、その理由を書くとなると、あらゆる出展―主として地誌の類ですが―を落ちのないように探して、正説がどれで付会の説はどれかなど、その坂名の周知度も合わせながら考えることになります。
 どんな仕事でも、新しく着手するとなると、思いがけなかった問題にぶつかるものですが、とくにこれは、およそ土木、建設関係では縁のなかった仕事ではあるし、全体のなかでもルーティン・ワークとしての定法みたいなものがなく、参考となる前例もなかっただけに、いろいろの困難に遭遇することになりました。 位置の確定にしろ、名称の確定にしろ、実はたいへん複雑な要素がからんでいます。あるいは、ご存知ない方には信じられないことかもしれませんが、明らかにひとつの坂にみっつも、よっつも違った呼び名がついていたり、違った文字でその坂名が書かれていたりしていることも決してめずらしくはない。
 つまり、異名同坂というものが、実際にはかなりあって、複数の坂名をもつほうが、多いくらいではないかとも考えられます。坂数の2.5倍の坂名があると計算した人もいるくらいです。坂道と坂の数については、もっとあとで述べたいと思いますが、その中には同じ坂を言っているのか、違う坂を言っているのか見当のつきにくい例もあります。
 そして、その逆に、同名異坂というべきものも、これまたずいぶんとありまして、なかなか面倒なことになっているのです。 

<最高七つの異名>

 例を挙げてみますとこれが、おそらく東京中の坂の中でも、もっとも異称を多く持つ坂だといってさしつかえないと思いますが、新宿区の若宮坂(わかみやざか)、牛込の若宮町、のごときは六つも異名をもっていることになっている。即ち、祐玄坂、唯念坂、幽霊坂、嶺坂、行人坂、新坂、で合計七つの変名です。もちろんそれぞれに由来に関しての説がある。
 徳川幕府の公的な江戸の地誌資料集である「御府内備考」(これは、今日の東京大学に似て、もっと権威があった幕府の昌平坂学問所。 この坂名も五代将軍綱吉が孔子の出生地名をとって名付けたもので、昌平簧ともいう)の長である林大学頭を総裁にして三島政行らに編集させたもの、最大最優の量と質を持つ江戸の地誌資料集、文政12年(1829)編集)に、その由来の大半が載っています。
 すなわち

  1. ゆう玄という医師がむかし住んでいたからである。
  2. そのゆう玄をまちがえて、ゆうれい坂と呼ぶようになった。
  3. いつのころだかわからないが、この坂に幽霊が出たことがあって、土地の人がそういうようになった(「改江戸志」という本からの引用)
  4. むかし、この坂のへんに、唯念という僧の小さな庵があったため、ゆう念坂といった(「江戸志」という本からの引用)
  5. そのゆう念を言い間違えてゆうれい坂と呼ぶともいう
  6. この土地に、昔は梅の木が多くあって、台徳院(2代将軍秀忠のこと、その諡(おくりな)で幕府はこのように公式には書く)様がこのへんにおいでになったとき嶺の名をつけられたともいう
 となっています(行人坂、若宮坂、新坂というのについては、資料が違うのでのちに記します)。
 権威としては、この最後の嶺坂というのが、何しろ将軍家じきじきの命名なのですからたいへん値打ちがあり、そういう意味では前記の昌平坂と双璧をなします。しかも、この?嶺とは、中国大陸の梅の名所の地名をとったということで、まことに学問的香気にあふれ、おくゆかしく由緒ある坂名ということになります。
 権威としては、この最後の嶺坂というのが、何しろ将軍家じきじきの命名なのですからたいへん値打ちがあり、そういう意味では前記の昌平坂と双璧をなします。しかも、この嶺とは、中国大陸の梅の名所の地名をとったということで、まことに学問的香気にあふれ、おくゆかしく由緒ある坂名ということになります。
 秀忠命名というのは、あくまで伝承であって、しっかりした記録のあることではありませんが、「御府内備考」がこの坂のことを記述する見出しに、嶺坂の名をとっているのは、事大主義の現れとみられるとともに、やはり、儒学者として、編集者がその名の高尚さを好んだものと思われます。今日でいえば、さしづめ原宿の表参道を、気取って日本のシャンゼリゼェというようなものでしょうか。
 しかし、せっかくの由緒深い名も、学のない俗人には、ユレイというのがそれほどの曰く因縁のあるものとは理解できません。聞き慣れない嶺のユレイが、うらめしやの幽霊と誤解されても不思議はないところで、この嶺がなまって幽霊坂となったとも考えられます。

<10もある幽霊坂>

 幽霊坂とはまたえらく陰気な名前をつけたものだと思いますが、どういうわけか、江戸の坂の名前にはたいへん多く、なんとほかにも9ヶ所、合計10ヵ所もユウレイ坂があるのです。
 どうもあまり景気のいい呼び名ではありませんから、このユウレイ坂のほかのユウレイ坂でも勇励坂と文字を書き変えたり(千代田区麹町)、紅梅坂(千代田区神田)、乃木坂(港区赤坂)、宝竜寺坂〈新宿区牛込〉、湯立坂(文京区小石川)と別の名をつけているのが多く、文字通り幽霊坂のままなのは、港区三田(ただし、これには有礼坂だったという説がある。森有礼の屋敷があったというが確かめられない)と、文京区目白と千代田区麹町(さっきの勇励坂の近くだがそれとは別)の三つだけです。そしてもうひとつ全く文字の違う夕麗坂(新宿区市ヶ谷本村長)というのが,旧尾張徳川家の庭内の名所のひとつとしてあったそうで、これを加え、江戸のユウレイ坂は合計10ということです。
 元来が暗闇(くらやみ)坂などの別名をもっていたり(小石川の湯立坂ともいう幽霊坂のもうひとつの名)、寺のそば(三田の場合)などの淋しい坂をそう呼んでいます。
 もとの若宮坂に話をもどして、この七変化の名前をもつ坂も、あるいは、もとが幽霊坂なのであって、それを祐玄だの、唯念だのと考えたり、最高にもっともらしく嶺坂と文字を書きかえて、あまりに上品過ぎたので、将軍家御命名と箔をつけた人がいたのかもしれないと、そう疑いたくもなります。江戸の人は一体にことばの遊びが好きで、地名にも往々にして、この種の付会の説が多いのも事実です。
 あるいは、ユウレイというのは幽霊でなく、何かほかの言葉かもしれないと思います。何しろ10もあるのはいくら同名の坂が多いといっても、多さのランキングでは23区以外の1ヵ所と新富士見坂を含めて、19ヵ所の富士見坂、15ヵ所の新坂、13ヵ所の暗闇坂、11ヵ所の稲荷坂についで第4位にあるわけで、それにつぐ潮見坂、地蔵坂を比べても、そんなに好まれてつけられる名称ではないはずです。
 ある研究家は、墓地のそばは、すぐ幽霊坂と名づけたものだといわれるが、この若宮坂のばあい、そうでないので、いささか疑問は残るのです。
 何か、ユウレイということばにほかの意味があることが発見でき(ただし、「広辞苑」をみても雄麗、優麗の文字しかありません)、これらの坂の共通点がみつかればいいんですが、何分、この名のつけられたのは、江戸時代も半ば以前のことでしょうから、方言や草花のたぐいの名を探るとしても、少々難しいかもしれません。

6 正説邪説複雑錯綜

<幽霊・若宮・行人>

 10ヵ所も東京にはあるけれども、元来、幽霊坂というのは、寺のそばであったり(三田)、暗闇坂の別名をもつ坂(小石川)であったりして、さびしい坂についていることが多いのは事実のようです。
 そうしてみると、この七変化の坂名をもつ牛込の若宮坂も、もともとが幽霊坂なのであって、それを、縁起が悪いとか何とか考えた人が、学者であったためにちょうど、嶺という地名を思い出し、もっともらしく文字を書き換えてその上、荘重な由緒にふさわしく、将軍家で命名と箔をつけたのかもしれないと思われます。
 江戸の人は、いたって語呂合わせのたぐいが好きで、江戸の地名には、この種の付会の説が多いのも事実です(たとえば、芝の神谷町、これはそばの増上寺に三千という多数の学僧がいたために紙墨の需要が多く、紙屋町といったのが文字を重々しく代えたのだという説がありますが、これは別の確かな資料に三河の村名をとったものだとあり、紙屋町は語呂合わせに理由をつけたに過ぎません。
 そしてまた若宮坂を行人坂ともいったことの説明は、江戸地誌の決定版である「御府内備考」には全く触れていないのですが、明治になってから作られた「新撰東京名所図会」という有名な地誌には、先に述べた唯念という僧が、行者だったためであろうとしてあります。
 この行人坂というのも、ここのほかに目黒と麹町の2ヶ所にあり、ことに目黒の行人坂は、江戸の大火のひとつ、行人坂の火もととなったところとして有名です。牛込の行人とは、修験者の行者をさしているもので、神仏混交的な修行者でしたから、僧侶をさしたものだとしても、不思議はありません。
 そして若宮坂というのは、この坂を登ったところにある若宮八幡からきているので、もっとも疑いなくわかりやすい坂名ということになります。この若宮八幡は、文治5年(1189)に源頼朝が創建し、跡が荒れ果てていたのを太田道灌が鎌倉鶴ヶ岡八幡をここへ勧請したのだと社伝にあります。
 この種の社伝の真否をただすよすがはありませんが、少なくともこの坂の他の坂名の由来よりは、若宮というのがもっとも古く、由緒があるものといえましょう。それだからこそ、寛永9年(1632)以来ここが若宮町として正式の町名になっているのだと思います。
 ただ、これとても、この若宮八幡から西のほうへ上がってゆく坂を、また若宮坂ということがあるそうで、すぐ近くに同名の坂があるというのは、固有名として他と区別がつけやすくなければならない地名としては一種の弱点ということになります。
 「御府内備考」によると、この八幡から西へ上がるほうの坂は、新坂というのが正しいらしく、享保(1716〜35)年間にひらけた道であるので、新坂といったのだろうとあります。
 しかし、たいへんややこしいことに、江戸時代のもっとも売れた区分地図である尾張屋版の切絵図では、元来の若宮坂のところにシンサカと書いてあります。

<まちがいの多い絵図>

 たぶん、これは切絵図のあやまりだろうと思います。この種のまちがいは、実は江戸絵図にはかなり多いのでありまして、なかにはあまりわかりきったような字の書き違いをしているので、これは江戸図というものが軍事上の理由などで幕府が完璧なものを出せない方針からわざと間違えないと、出版が許されなかったのだろうとか、間違った資料を渡して作らせたのだろうという説を唱える人があるくらいです。
 しかし、いくつかの江戸図を照合すれば、それが故意の誤りであったわけではなく、何らかのミスで生じた誤記であったらことは確かだということがわかります。むしろ完璧は地図の作成のほうが非常に困難なのです。
 この新坂という名までいれて若宮坂の坂名七変化というわけですが、この若宮坂の例をみただけでも、坂名の名称というものは、なかなか一筋縄ではいかない複雑なものであることがお分かりいただけたろうと思います。

<文献尊重と地元尊重>

 それにしても、正であれ否であれ、相応の理由があって、説明がつくならば、議論の種にはなっても、問題は現実には起こらないかもしれません。しかし、標識にするとなれば、いくつもあるなかで、そのすべてを書くわけにもいかず、いずれをもって代表的な名称として固定させるかという厄介なことが起こってきます。
 文献に多く見られる名称がいいのか、地元で呼びならわしているのがよいか、という問題もあって、なかなか苦心を要するのです。
 赤坂の東宮御所の前から西へ上がる坂は権田原坂、一名安珍坂ですが、権田原が古くからの地名で、バス停留所の名称にもなっているからよかろうと思われるのに対して、東宮御所警備のおまわりさんなどには安珍坂と呼びならわされているということです。
 地元尊重を第一に考えるというのは、たしかにたいへん大切なことですが、現実に地元で、どういう呼ばれ方が一番使われているかということを調査するのは、実は容易なことではありません。調べてゆくと、確定はむしろ不可能に近いと諦めることもしばしばです。
 ことに、念を押すつもりで、古い文献にはこう出ているのですが、と試しに言ってみると、いささか地元の人もグラついていることがある。こうなると、なおさら始末におえなくなるというものです。
 泉岳寺にほど近い高輪にあるホラ坂(あるいはボラ坂)は洞坂、法螺坂、鯔坂と書きようもいろいろあるのですが、どうしても古地図、古文献などの資料にあるものと、現在呼ばれているものとの位置が違う。古い資料から考えると、どうしてもこの坂は東禅寺という、幕末にイギリス公使館であったことで有名な寺の南側ですが、今日の説では、寺の北ないし西側の坂ということになっている。 
 このままでは標識の立てようもなく、やむをえず、正統と思われる文献資料を無視して、別のそれらしいところに標識を立て、その由来説明には、資料によるところの別のところをいうのだと記してあります。事実上、立てたところのほうが通行人にも良く見られ、普及しやすいということもあるのです。
 この坂名は窪んだ土地だから、ほら穴という意味で、洞と名づけたのだろうというのが「御府内備考」や「再校江戸砂子」の説ですが、貝のホラが出土したところという「江戸志」、「続江戸志」、「江戸紀聞」などの説もあり、それらがつぎつぎに前説を引き写したのだとすると、数が多いからといって、ひとつの説に決めることもできない。
 「芝区誌」はまた異説で、中世以前は海岸のすぐそばだったから海触の洞窟とも、先住民族の穴居住の跡ともいうといっています。鱣坂 鯔坂と書いているのは、どうやら濁ってボラと呼んでいたから当て字にしたものらしく、魚のボラの意味だという説は全くありません。文字からだけは推論できないというひとつの例です。洞村という小字名になっていたくらいの地名ですから何か由緒はあるに違いありませんが、位置由来とも決定的な証拠は何も残っていないのです。

<上下で違う坂名>

 もうひとつ、このホラ坂のもう少し南の品川駅前にある新坂と柘榴坂の関係になると、表現がまた別の意味でむずかしい。品川駅の正面西口からそのまん前のホテル・パシフィック東京に向かうと、ホテルの左側に、駅前に第一京浜国道(国道15号)と直角に西へ上がっていく坂道がある。ホテルの反対側角は京浜急行本社です。この坂道が通称、新坂であることはまちがいありません。しかし、ここを新坂と呼ぶのは、さかのぼっても、明治20年ごろ以後のことだと考えられます。明治18年の地図には、全くここには道がないからです。そして、さらにさかのぼりますと、明治9年の地図にまたこの道が上半部だけ現れてきます。
 その下半部は、途切れているのではなく、少し屈曲して、のちにできる新坂よりは南の位置へ平行して下がっているのです。この明治初年まであった坂は、柘榴坂と呼ばれたことがハッキリしています。理由のほどは文献には記されていませんが、とくに記されるほどもなく、道端かそばの屋敷の中にでもザクロの木があったからだろうと察せられます。何か曰く因縁があれば、当然書き記されただろうと思われますから。 そこで、現在の標識は、伝統を重視して、柘榴坂と記され、新坂ともいうと説明につけ加えられることになりました。それはそれでまちがいはないと思いますが、地図をよく照合して考えてみると、多少の疑念がないわけではない。
 たしかに、その上部は昔の柘榴坂の復活です。しかし、下部も柘榴坂といっていいかどうか。少し位置が違うことを考えれば、これはまた柘榴坂とは別の、やはり新坂というべきものではないか。
 現実にこの坂をよく観察してみると、なるほど途中でちょっと坂の傾斜が緩やかになるところがあって、連続する二つの坂道であると考えるほうが理に合っているかもしれないのです。そうすると、新坂は柘榴坂の別名ではないかということになる。もっともあくまで、ひと続きはひと続きであり、昔と少し位置は違った部分があっても、古く命名された柘榴坂はいったんは絶えたが復活したと考えるか、また新坂というのは柘榴坂全体が絶えて、それこそ新たに坂ができたのだから、上下の別なく新坂とすべきだと考えることもできるでしょう。 
 このように三様にも、四様にも考えられる坂道があるのです。

<芋とウドン>

 少し複雑な坂名の話が続きますが。右せんか左せんか、決定的に諸説対立していて、収拾がつかぬ感じの、芋洗坂と饂飩坂の話をして、なにがしかの結論に至る見本としたい。
 新しい東京の象徴ともいうべき六本木、否むしろ、六本木には、いまや世界の超一流の服飾店やレストランなどが集まって、むしろ戦後、世界的なもっとも新しい町になってしまったかの感がありますが、その中心に位置する交差点の近くに、芋洗いに饂飩というはなはだ田舎じみた坂の名が残っています。
 饂飩坂の名の由来については、その起こりは年月がわからないが、旧家で、うどんを商う松尾伊兵衛という人が、天明(1781〜1788)のころまで、坂のそばにいたからだと「文政町方書上」(「御府内備考」編集のとき最も基本的は資料となった各町々から書きだされた由緒書)にあります。
 これに対するたったひとつの異説は、饂飩坂というには善知鳥(うとう、ハトくらいの海鳥)坂がなまったのではないかというのです。確かにうとう坂という例はあるようですが、この場合は何でも字義発音を疑ってかかり、想像をたくましくする癖のある人の憶測にすぎないようです。うとうのクチバシのような出崎の坂というのも当らない。
 そば屋が一般的な江戸で、うどんという言葉が用いられていうのはたしかに珍しいが、珍しいがゆえに、坂名にとられたとも思われます。そしてやはり何といっても「文政町方書上」の信憑性、それも年代、固有名詞をいれてまでの文献ですから、あえてそこに疑いをさしはさむには及ばないと思います。
 いっぽうの芋洗坂ですが、巷間に伝えられている文献では、これも字義どおり芋を洗うことと関係があったとされます。
 まず、「江戸砂子」では毎年秋になると、近在の百姓たちが、毎日、朝日稲荷(現存)の付近にやって来て、市を開いて、芋を売っていたといい、「文政町方書上」では、ここに千栽(前菜つまり野菜のこと)問屋が多くあったから、芋洗坂と伝え、去る酉年(文政8年)まで源六という者が芋問屋をしていたと付近の2ヵ町から記しています。そのほかにも「江戸図解集覧」は坂下に芋問屋があって、この坂を芋洗坂といったといい、また近年の「麻布の名所今昔」という本も坂ぞいに吉野川といって、そう大きくはないが、急流があって、芋を洗うのにいかにも適していると書いてあります。
 しかし、この芋洗い説に対して、強力に反論を唱えているのが坂研究の先覚者横関英一氏(故人)であって、いも洗いといえば疱瘡神にほかならず、いも、すなわち疱瘡を治すお水があったに違いないとして寛延3年(1750)ころのある地図に付近に弁天とあるから、必ずや池があってその水で治療のために洗ったはずだと考えておられます。
 実際お芋を洗うと考えるのはむしろ付会の説だというのですが、そうすると、なぜ、疱瘡神の神の存在がそんなに簡単に忘れられて、何の記録にも残らなかったのか。1750年ころといえば、「江戸砂子」(1732)が刊行されたよりもあとのことで、それに気がつかれないのも不思議です。それに弁財天が疱瘡に効があるということもきかない。
 たしかにいも洗いには疱瘡治癒という意味はあったに違いなく、諸国に地名となった例もあるには違いないが、それだけを根拠に地元の人の言を否定して、芋は芋にあらずと断定してよいものかどうか。やがて問屋になって行き、その問屋もしだいになくなっていったというのは、いかにも江戸の辺境地帯からスプロールによって市街に組み込まれていった麻布の発展過程を鮮やかに示していうように思われる。
 そして、この吉野川の流れる道筋はたしかに江戸初期の地図を見ると、まさに芋の持ち運ばれてくるにふさわしい田舎との連絡路に当っていたことが読み取れるのです。
 そこで、こうなると、芋洗坂の名義の問題は、その正しい位置にかかわることになってくるのですが、これにうどん坂がからんでおおいにまた議論が生じます。

7 丁々発止の論争

<近江屋対尾張屋>

 現在の六本木交差点は五差路です。高速道路を図上にいただく溜池方向と渋谷方向へ走る道、それにほぼ直交して、飯倉、狸穴、東京タワー方向と赤坂乃木邸、青山一丁目方向と通る道、それにもう一本、それらの道よりはやや細く、アマンドとマイアミという二つの喫茶店の間を日ヶ窪を経て麻布十番、一ノ橋方向へくだる道です。
 そして、問題なのは、この最後の坂道の名称です。現在、図で示すように●印のところには饂飩坂、○印のところには芋洗坂という標識が立っています。
 このように標識が立てられていると、当然だれもが点線を饂飩坂、実線を芋洗坂と、理解するでしょう。もちろん、標識はそのつもりで立てられたのです。
 ところが、これを克明に資料、口承などで追求していくと、それが一説に過ぎないことがわかります。このところの道筋は、分岐の仕方から考えると。図のように、五つの坂道から成り立っていることになります。仮にA、B、C、D、Eと符号をつけてみました。
 この五つの坂道を、どのように考えるかによって、さまざまに受け取り方がわかります。当然、江戸時代の文献地図などから調べてゆくのですが、驚いたことに、その当時から説がまっぷたつにわかれていることがわかあります。
 それも代表的な二種の江戸地図、近吾堂版の切絵図と尾張屋版の切絵図が正反対です。そのことを図でお目にかけます。近吾堂の切絵図は緑、黄、黒、水色など色彩が地味ですが、尾張屋版よりは正確ともいわれており(それとてもまちがいがないわけでは決してなく、部分によっては尾張屋版より表記の誤りの多いところもあります)、尾張屋版に先行して売られました。
 尾張屋版切絵図が若宮坂をシンサカとまちがえていることは、前に指摘したとおりですが、誤りが多いといってもごく相対的なもので、後発の図にもかかわらず、赤、青、黄、灰、緑など色彩鮮麗で人気に投じました。この色は大衆好みでありますが、もと幕府の地図彩色原則にのっとったもので、見易いという特徴もあるのです。
 ところが、対立は、商売敵の近江屋(近江屋吾平が堂号をもって近吾堂と名乗った。地図ではもっぱら近吾堂版という)と尾張屋(これにも金鱗堂という堂号はあったが、通常地図では尾張屋版ですませる)の間だけでなく、当時の幕府のなかにもあったのですからしかたがありません。

<大学対建設省>

 すなわち、しばしば引いている「御府内備考」(幕府の大学である昌平坂学問所で編修)では、尾張屋と同じ説明をしておりますが、いわば建設省ともいうべき幕府普請方の編修にかかる「御府内往還其外沿革図書」(これは延宝年間 1673〜1681 以来の江戸市中の繁華をおよそ3千分の1から2千分の1の精度で克明に分割し、何枚もの図面をくり返して追ったもの)では近吾堂版と同じ表記をしているのです。
 そして、もろもろの資料を検しますと、「備考」説に与するものに「江戸砂子」「東京案内」「麻布区史」、「港区史」「続江戸の坂東京の坂」などがあり、「沿革図書」説に与するものには、「文政町方書上」(農地飯倉六本木町、北日下窪町、教善寺門前の3町分、これは先述どおり「御府内備考」の収載資料になったものですが、この各町名主が書き出したものと反対説を「備考」自身は坂道の説明でとっている)、「江戸図説集覧」、「東京府志料」、「東京地理沿革志」、「新撰東京名所図会」「東京の坂道」などがあります。
 資料の数からいっても両者は伯仲しております。ひとつの強力な資料をつぎつぎ踏襲しても、もとをただせば流布した頻度が高く、影響力が強いだけに過ぎなかったというような数の争いだけでなく、実質的に互いに相容れぬ説を唱えているわけです。
 この両説を、仮に「備考」説、「図書」説とすれば、「備考」説は、ADが芋洗坂、Bが饂飩坂であり、「図書」説はABが芋洗坂、Dが饂飩坂となります。
 そして、今の標識はAEが芋洗坂、Bを饂飩坂としていることになって、これは前二節のいずれとも違うわけです。これらをつくづくと読み、当時の地図をとくと眺め、そして現地の有様と照合してみると、私はどうしても「図書」説に賛成したくなるのです。

<地元の説に軍配か>

 第一に、それは何といっても書上に記してあるということで、そのことはとりもなおさず地元の人自身の説であり、公儀へ差し出すために決していい加減には書かれていないに違いないということです。そしてこの書上の説明は、地元の記録であるだけに、記述が具体的であって、その幅や長さが詳しく、かつ位置関係は当時の報告した町の状況と適合していること、さらに、「沿革図誌」の作成に当った人は、普請方という土木関係者であるから、「御府内備考」の編者のような机上文献論的な学者よりも、現地の実際をよく把握して言うだろうと思われることです。
 「備考」説を強力に支持主張しておられるのが、「続江戸の坂 東京の坂」の著者横関英一氏で、私のもっとも尊敬する地誌地図の考証学者ですが、残念ながらこれだけは承服するわけにはいきません。
 まず、横関氏説は、前に述べたように、芋洗坂の芋洗の説明について推論に推論を重ね、いわば仮説の上になりたっていること、「町方書上」が記す位置関係において、通常江戸市中に流布した江戸図をみておられるだけで、錯雑している江戸の町境を精細に表現した「御府内往還其外沿革図誌」をみておられないらしいことなどが弱点となっています。
 「沿革図誌」は稿本しかないので、みておられないものも無理はないが、これがなければ、坂に関係のある町との位置関係をつかむことができないのです。江戸時代に流布したどんな地図を使っても、この「沿革図誌」がない限り、性格な地名の位置はわからないと断言してもよろしい。
 そこで、この「沿革図誌」によって、両坂付近の地図を再現して掲げてみました。これを「町方書上」の両坂の関係する記述と参照してみますと、「饂飩坂」について記述しているのは「教善寺門前」という町のみです(××寺門前という町名は、それが、もともと寺院の境内地をさいて一般庶民に住まわせたことにした時つけられた町名で、ほとんどの寺にこういう町地が付属していました。はじめ寺社奉行の支配下にありましたが、ある時期に町奉行支配となり、普通の××町というのと全く変わりない町なのです。)
 それに対し、「芋洗坂」の記述があるのは「飯倉六本木町」と「竜土坂口町」と「正信寺門前」と「北日下窪町」の4町です。飯倉六本木町が竜土坂口町と正信寺門前町とを代表して由来を述べ、別個に北日下窪町、芋洗坂は大久保加賀守の屋敷との間で、源六が商売替えをするまで芋問屋であったと述べていますが、とくに竜土坂口町は、芋洗坂の下り口なので、坂口町と申し伝えると町名の由来を述べています。
 これら5町の位置関係を、「沿革図書」と参照してみると、どうあっても、芋洗坂はAB、饂飩坂はDとせざるをえないでしょう。「沿革図書」自身の坂名記入はBを芋洗坂とし、ACDの交会点付近(Eは江戸時代にはない)をただ坂としていますが、これは饂飩坂をDとすることやAをも芋洗坂とすることを否定するものではありません。
 そして、饂飩坂は「幅五間程登凡拾五間程」、芋洗坂は飯倉六本木町で「凡長三十間幅三間余」、北日下窪町で「登凡四拾弐間余」と「町方書上」のそれぞれに書いてあるのをみれば、現地の坂を参照してABと続くのが芋洗坂で、Dは饂飩坂と察せられます。
 道の通りようからいうと、ADが続いてBが派生しているようにもみえますが、ABが一連のもので、Dが別個であるという考えは、これは芋洗坂の名義だけでなく、古い江戸図をさかのもぼっていくと証明されます。

<開通の順序>

 時代順でいうと、いま芋洗坂の標識の示すEの坂は、たしかにそう思っている麻布の人もいるのですが、明らかに明治中期以降に教善寺の境内を貫いて新しく作られたものであって、芋洗坂や饂飩坂の名称がすでにあった江戸時代にはない坂道なのです。
 多分、これは明治20年台の市区改正で、溜池から霞町方面へ新たに六本木交差点を作る今の高速道路の下の道路ができて開かれた道に違いありません。大正、昭和初期にこの界隈で育った人は、これを芋洗坂と思い込んでいる例もあるので、一概には否定できませんが、地元の人といえば肝腎の坂ABCDEの交会点にお住まいの遠藤氏が、断固としてAB芋洗坂。D饂飩坂説を体験として主張されています。
 Eが一番新しいとして、そのつぎはどれかというと、あとは全部江戸時代からあるのですが、あらゆる江戸実測図の根源と目されている通称「寛文五枚図」という江戸図にはDつまり饂飩坂がありません。これなど極めて精密で正確、信頼度の非常に高い地図ですから、ABCしかなかったということは間違いないと考えます。そしてこの図を見ると、ABがつながり、Cがそれから派生したという感じがします。屈曲しているからといって別の坂とは限らないのです。
 寛文図の測量は万治年間(1658〜61)に行われたと考えられていますが、元禄6年(1693)の地図にはもう饂飩坂の道が現れており、「沿革図書」の最初の図、延宝年中(1973〜81)の図にも描いてありますから、おそらく1670年前後に作られた坂道でしょう。
 ABCの三つの坂を考えますと、古くひらけた坂下の麻布十番の市街からAを通ってあたってきて、芋を生産するような田舎は向かう道がBであり、Cはこの道から古い奥州街道だという尾根筋の道である飯倉青山1丁目間の道(いま外苑東通りという)へ出るためについている道です。尾根筋へ出る道というものは通常屈折していて、直登しないものですから、この道が曲がっているのは急斜面をゆるめつつ迂回して尾根へ登った形と見ることができます。

<ウドン子の嘆き>

 先述の遠藤氏は、市中有数のうなぎ店大和田をここで経営しておられた方ですが、饂飩坂というのは坂道の標識が自分の家のすぐ前に立ったので、私の家はむかしからの芋洗坂であって、饂飩坂ではない。現に俳句をたしなんで俳号を芋洗子といっているのだから、その玄関先に、饂飩坂とやられてはウドン子になってしまうと苦情を申しておられました。
 まことにごもっともな話で、長くお住まいの方だけに、もう議論の余地のない位置関係の証言になると思います。しかしこの街を少し離れた付近の人たちに、今の標識のように、芋洗坂を考えている人もあるのでありまして、これはおそらく明治なかば以後の幹線道路に面したため、目立ちやすくそう呼びならわされたものでしょう。
 新しく、かつ勘違いとはいえ、これとても、何十年の歴史があり、信ずる数の上でも、優勢になっていますから、にわかには標識も改められないと思いますが、歴史的伝統を重んずるならば、以上の通りであることを申して、芋洗、饂飩両坂の論争を終わりましょう。

<東京の坂の数>

 坂の位置と名称を論ずることの難しい例、逆にいえば、坂道の調査研究のもっともやりがいがあるともいえる例をいくつか挙げてみました。
 先述の先駆的な坂道の研究家・故横関英一氏が「坂の研究とはすなわち坂名の研究である」といわれているのも、こうしてみると確かに一理あるといえましょう。坂名がなくても、坂そのものを人文地理的に研究することはできるとは思いますし、その必要のあると思いますが、やはり坂名の研究はかなり大きい分野を占めるに違いありません。とくに歴史地理的にみると坂名にたよらざるをいないことが多いでしょう。
 名前のない坂は、坂がないのと同じというのは言いすぎだとしても、坂がどれくらいあるのか、数をかぞえあげることにすると、やはり坂の名の有無にたよらなければならないことになります。
 ただ坂の数といいますと、道の傾斜はすべて坂ということになり、おそらく丘陵地では道の数以上に坂の数があることにもなり、たいへん勘定しにくい結果になると思います。
 名のある坂といっても、すでに述べたように異名同坂、同名異坂が続出する東京のような場所では、なかなか最終的に坂数を確定するのは困難ですが、坂名を残したいくつかの試みがありますので、それを紹介してみましょう。
 「御府内備考」以下、江戸時代の地誌や地名辞典のなかからも数えることはできますが、江戸時代の地誌は坂名に関してはやはり網羅しきれておらず、また明治以後刊行された江戸東京に関する地名、町名の辞典索引の分野はきわめて不備不完全なものしかありませんので、それらを用いることはできません。信頼できるのはつぎの三者のみです。

  1. 「江戸東京坂名集録」横関英一 昭和44年刊 「江戸の坂東京の坂」収載 433(これは江戸中心で、現在の都下や周辺区部は考えられていない)
  2. 「東京坂番付」源友雄(坂狂人)作、本誌1月号 収載 466(これは区部をだいたい網羅されているが、番付の体裁上若干削除したものがあるということである。昭和46年作成)
  3. 「東京の坂道」石川悌二、同名書の索引による。昭和46年刊 収載 486(これは都下三多摩の坂13を含む)
 いずれも昭和40年代に発表された調査研究によるもので、ここにもひとつの坂ブームの現象がみられるわけですが、私自身の考えによると、港区の麻布地区だけを例にとって、これらの資料を再検し、さらにこれらで使われていない資料や地元と照会した結果、さらにふえています。
 この成果は、「続・麻布の名所今昔」(永坂更科昭和48年刊)に発表しましたが、上掲の調査研究よりも1割くらいふえています。こうしてみると、さらに精査することによって、東京全体ではやはり500ヶ所程度になるのではないかと推測しています。

<坂の多い区>

 これらの地域的分布はどうなっているのか、上の3資料を整理しますと、つぎのとおりです。
 この表をみると、どの資料をとってみても、港区の一位は動かないところだと思われ、横関英一氏もある座談会の冒頭に、「文京区で坂は自分のところが一番多いなんて言ってみますが、港区の方が多い。麻布だけでも相当なものです。」と発言されています。(雑誌「旅」昭和49年4月号収載座談会「坂道を歩く」)。
 しかし、文京区自身は「文京区が 113ヶ所、港区 108、新宿区 70、千代田区 50余」(朝日新聞記事)と計算しているので、最終的な決着はまだついているとは言いかねます。
 標識のところで紹介したように、港区と文京区はそれぞれ特色のある坂名表示をしているのですが、これは両者とも、あらゆる名のある坂に立てるという網羅主義ではなく、目下一段落しているわけです。坂の数については、両者が同一の資料をつき合わせながら納得づくで数を比べないと、結論は出ないことでしょう。

8 東京坂名尽し

<坂道の分類>

 すでに述べた実例で、特別な坂道に限ったとしても、その考証には、複雑多様な資料を検討しなければならないことがおわかりいただけたでしょうか。
 議論のある坂の全部に、それをやるわけにはいきませんから、似たような坂をひとからげに、まとめてみておこうと思います。
 まとめ方にはいろいろあって、形態など自然の条件でやる方法も考えられますが、ここでは地理、歴史、言語的なものに限定しましょう。「坂学」ということばを使った人もありますが、今後ひらけるのは、やはりこういった人文的な分野だろうと予想しています。
 異名同坂の例はすでに述べました。逆に同名異坂の分類をし、数字化してみます。

もっとも同名の多いベスト4は

   富士見坂 18(別に新富士見坂1)、新坂 15(別に新道坂2)
   暗闇坂 13(別にくらがり坂1)、稲荷坂 11

この四つだけで全坂の1割を優に越えるという多さです。これらの坂名は、坂から見えるもの、坂を開いたときの気持ち、坂そのものの状況、坂のそばにあるものに由来するという四つの代表的なケースを示しているといえます。
5位以下を示しますと、

<一番多い宗教関係>

以上、数の分類のほかに名称の種類別分類もあります。最も多いのが宗教関係で、これはさらに、(1)宗旨・宗教者名等、(2)神仏名、(3)寺社名に分類できます。

付近の寺社、信仰にちなむものが大部分ですが、行・聖など開拓者にちなむもの、神仏混合・山岳信仰・民間信仰などにさらにわけられます。坂道の宗教的意味を反映しているのがある点にも興味深いのです。
つぎに多いのは人名との関係で、これは(1)苗字〈氏姓〉と(2)名〈官職〉とにわけられます。
多くは大名旗本に僧の名ですが、庶民・盗賊・狂人・学者・能楽師・女官の名があるほか、乃木・東郷・木戸の近代史の人、実盛・綱の古代の人、ゼームスと伊皿子(これは一説に外人の意のエベスにインベンスという漢字をあて、さらにイサラゴと読んだという。本名は王三官・明の帰化人)と鉄飛(ポルトガル人テッペヨースにちなむという一説あり、武士の姓ともいう)などは外国人の例です。

次が植物と動物の関係  
所在の樹木などが多いのですが、馬喰は職業で、猫股は化物です。職業関係もあって,
このおしまいは食料品関係です。
 ほかに多いのは、よその地名をとったもの、大部分は付近大名屋敷の官位名ですが、山嶽神の山の名もあります。
あとの三つは既述のように中国の地名です。

<三万円と二百円>

 抽象的な数字のつく坂を多いほうから並べると

 この数字の坂名には意味不明で諸説あるものが多い。なかでも注釈しておきたいのは三分坂(赤坂)です。かなりの急坂で、江戸時代から荷車などの後押しする人夫(立ちん坊)が待っていて、その手伝い賃が三分(さんぷん)だったそうです。賃金というと、だれでも五ブだと思うらしく、わざわざ間違ったふりがなをつける人もある。
 たしかに分(ぶ)も貨幣の単位だけれども、一両は四分だから、三分(ぶ)だと今の三万円くらいになる。いくらなんでも後押し賃三万円はおかしい。あくまでこれは三プンで銀一匁の十分の三ということで、これなら二百円くらいです。
 これを三プンと発音した証拠に、演習帰りの兵隊が重装備で駆け上がるのに3分かかった(坂上は昔近衛兵第三聯隊の正門でした)という俗説がありました。三ブ坂ならそうはならないはずです。意味がわからず付会の説がでてきたのでしょう。意味がわからず付会の説ができたのでしょう。江戸時代の資料にサンプンと書いたものがあるので時間の3分は付会の説とわかります。
 このように坂名の数字は数量の単位なのが多いけれども、三辺、市三などは人名です。ことに市三は人名だとイチゾウと読みたいが 実はイチミと読む。それは、名主の名からきた市兵衛町と残酷大名松平三河守(菊池寛「忠直郷行状記」の主人公)からきた三河台町の両頭文字から合成したもので、六本木に明治20年代にできた坂につけた名だからです。三辺は正しくは三べ、岡部・安部・渡辺 の三邸があったから。 
 また六天七面などは宗教的な名で、分類の基準の立て方によってはほかのところへ入ります。三光も仏具の三鈷なら宗教的ですが、日月星を現すなどともいう。
 二合半を「コナカラ」と読むのは半分の半分という意味ですが、ほろ酔いを意味するとか、日光が半分見れるから日光半だとか、富士十合に対し日光は五合として、その半分の二合半だとか随分説明に苦心の跡がみえます。
 一口も「イモアライ」と読むのが正しく、疱瘡神の痘痕(いも)あらいだとされていることは有名です。

<英語の坂名など>

*このほか天然現象では

*もっと抽象的になると *品物、設備関係で *付類の形状から、 相生以下は、二つの坂をいっしょに言い現したものです。
 このほかに英語の ビール(恵比寿ビール工場の前)、グランド(早稲田グラウンドのそば)。
動作を現す 見送り、見返り、見晴らし、化粧、御成、縁切、〆切。
 何か正確にはわからぬが、何となく所作を意味するらしい 睦、横見、落合、吹上、忍、目切、志村、首振など。

*所在施設から来ているものには、

*音曲から、 わかるが、分類困難な 病人(養生所そば)遅刻(日比谷高校前で遅刻のとき駆け上がる)、明治、化、蓬莱
それに由来がほとんど確定できない 沓切、正和、名光(蛍とも)、南平、早川など。
以上で完全に全部ではないが、ほぼ東京の全坂名の分類は尽くしたことになります。

 しかし、もっと分類として役立ちそうなのは、別の基準で時代別の分類です。つけられた坂名が中世以前を示す可能性のある聖坂、榎坂など、大名屋敷のあった時期の坂道の開拓が文書や地図で確認できるものなどで、逆に年の発達や道路交通の歴史が判明します。相当な作業になりますが、「坂学」はいまその試みに入ったという段階です。
 坂名の伝説などと絡み合わせて考えると案外、史実を確定できる材料になるかもしれません。
 このほかにも、まだ坂道でわからぬことが多くあります。例えば九段坂(麹町)が九段にわかれていたことは正しく事実で、また雁木坂が階段状の坂道であることもまちがいないようですが、しかし「江戸名所図会」の挿絵をみますと、ほとんどの坂が階段状の土とめがあるようにみえます。ほかの浮世絵などとくらべると。地図上の表現(例えば尾張屋版切絵図)と同じで、これを坂の記号代わりに使ったのではないか(写真を撮っても坂道の表現はむつかしく長焦点レンズを使って後ろへひくのがコツ)と疑われます。
 しかし、「江戸名所図会」はかなり写実的な描き方をするので、霞による省略のほか現実にない線をいれるとは考えにくい。そうすると江戸の多くの坂は未舗装なので土止めがしてあったのか、そのへんが疑問です。簡単なことですが、こういうことがわかっていません。

<坂の名にも涙>

 今年(1976年)の歌会始めのお題を「坂」とされたのは、坂への関心のひとつの頂点を作ったと思いますが、最後に、かろうじて由来のわかった桜坂(赤坂)のお話をしておきましょう。
 この坂の由来はどんな文献にも記録がありません。標識の設置でも現場の関係者などを当ったあげく匙を投げて「由来はわからない」と記しました。ところが役所の広報記事に坂道を訪ねる記事を書いていた中学生が、坂下に戦災で焼失した桜があったことを突き止めたのと前後して、桜の木の家に住んでいたというご婦人から連絡がありました。
 その桜は政治家桂太郎が愛妾のお鯉さんの家に植えたもので、その後この御婦人の一家が住まわれました。二かかえもある木で、うす黄の花びらのために黄金桜と呼ばれ坂上からみる花盛りはことに見事なものでした。そのご婦人は当時白百合の女学生で、20年5月25日の空襲には自分も消火に頑張ったけれど、焼夷弾が燃料不足で焚き物にする落ち葉が隣家の坂(バン)さんとの間に積んであったのに落ち、付近もろとも焼けてしまったのだそうです。坂を桜坂となづけたのは坂さんのおじいさんとか。小林さんは戦災後鳥取へ引越して、その後東京へ来ても訪ねる機会もなかったが、なつかしさのあまり行ってみると、医院になっていて、桜のそばにあった八つ手だけは今も残っているのを発見しました。しかし桜坂の標識に、由来がわからないと書いてあるのを見てあの桜が忘れるほど変わったかと、思わず涙がこぼれたとおっしゃっています。 変貌を続ける東京のなかで、小林さんの感慨は、多感な少女時代の追憶と感傷だけとは言いきれません。私はこのことからも、坂名の由来がどんなにか、危うい機会に失われ、また残されるものか、ひいては、東京の追想と歴史にとって、坂がどんなに深い情緒と意味をもつものかということを、しみじみと感じたものでした。

(本稿の執筆は故横関英一、石川悌二、源友雄の三先生をはじめ数多い先学のご先鞭に負うものであって、記して敬謝の意を表します。)
−完−


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