坂学会/坂歩き雑感・文京区(2)

 坂歩き雑感           小谷 武彦

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2008年10月15日


ゆかりの文士たちが過ごした文京区の坂と
文学作品に登場する坂の数々(2)


 最初に、この(1)で紹介できなかった私の好きな坂のひとつであります無縁坂は、上野公園不忍池に近い湯島4丁目の坂です。文豪森鷗外の名作の「雁」の中でこの坂名が数多く出てきますが、この坂は小説の全体の風景描写とその情感に影響を及ぼしているようです。そして、この坂は近年になって、'70年代に、歌手の「さだまさし」がこの無縁坂を思い浮かべて、作詞作曲して忍従の女の一生を歌いましたが、今はそのほうが有名と聞き、何か時代を感じさせられますが、やはり鷗外の「雁」で、この坂は親しまれていると考えています。

 さて、この小説「雁」に描かれるこの坂は、明治15年頃の主人公の学生の岡田の散歩コースの一部ですが、これは即、鷗外の散歩コースだったと思われます。「岡田の日々の散歩は大抵道筋が決まっていた。寂しい無縁坂を降りて・・・」と書かれています。ところで、「雁」のヒロイン・お玉が思いを寄せる岡田が散歩した道順通りに、無縁坂を降りていきますと、左手に赤レンガのマンションが建っているのが目に入り、右手は高い石垣で、これは旧岩崎邸の堀石垣です。その当時の情感が薄くなった感じは否めません。この坂は作家の森まゆみさんが「鷗外の坂」で書かれていますが、幸い薄い「雁」のお玉の人生を象徴するような坂の名前のように思えますがまったく同感です。

 この無縁坂は坂の上にある「講安寺」が、以前無縁山法界寺といったことから名付けられたと聞いています。また、一説にはこの界隈には武家屋敷が多かったので、武家に縁があるとして「武縁坂」と呼ばれることもあったようですが、今も人気のある東京の坂のひとつではないかと思います。

下から眺めた無縁坂 上から眺めた無縁坂
下から眺めた無縁坂
上から眺めた無縁坂

 続いて、文豪の夏目漱石「三四郎」を意識して書かれたという鷗外の小説「青年」では(1)で紹介した新坂(S坂ともいう)のほかに、主人公の小泉が友達の瀬戸と散歩後、分かれる場面に団子坂が出てきます。そしてこの団子坂(七面坂・潮見坂ともいわれる)は千駄木2丁目と3丁目の間の坂で、今は写真のようになだらかな坂ですが、交通の激しいところです。かの漱石の「三四郎」でこの坂は2度ほど登場します。この団子坂の横町で、三四郎は与次郎と広田先生にばったりと出会っています。もう一度は三四郎を度々惑わす恋人(?)の美しく、知的な都会女性の美禰子他3人と、当時人気のあった団子坂の菊人形見物に出かけています。江戸の終わりから明治にかけて東京を代表する名所だったそうですが、小生には青春の入り口に佇む三四郎と美彌子が、初デートした所として印象に残ったところであります。

団子坂 団子坂
団子坂

 ところで、この団子坂については正岡子規が俳句で「自雷也もがま(蝦蟇)かれたり団子坂」と詠っていますが、「三四郎」に登場する前述の与次郎のモデルは子規といわれています。そして、この団子坂は、写実主義理論にもとづいて書かれた最初の作品の近代文学のはしりの二葉亭四迷の「浮雲」第2章の「団子坂観菊」で詳しく書かれています。さらに、江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」の書き出しの1ページのD坂とはこの団子坂だといわれています。

 さて、この団子坂ではなんといっても鷗外に関わりを持った数多くの文学者を思い浮かべます。鷗外が団子坂上にあった住処の「観潮楼」で開いていた歌会に参加していたのは、与謝野鉄幹・晶子夫妻、石川啄木、伊藤左千夫、齋藤茂吉、佐藤春夫という怱々たるメンバーです。さらに鷗外を師と仰いでいた昭和の文化勲章作家の永井荷風もこの坂を上ってきたのです。この荷風が後述する「日和下駄」のなかで、藪下通りを経て団子坂に来ていた事を書いています。つまり、この団子坂は日本の近代文学史に重大な足跡を残した人々の所縁の深い場所であったのではないかと思いますが、この藪下通りは、今もそのロマンを伝えた素晴らしい坂道です。ちなみに鷗外が「団子坂」という表題の小品を書いています。これは前述の「青年」に先行して書かれた短編で、青年の若い女性に対する性衝動が主題のようで、「青年」と同じような場面が登場して興味をそそられます。

 この団子坂上を真北に行った本馬込4丁目と千駄木4丁目の間に動坂があります。200メートルほどの坂で、かってはこの坂の上に石の不動の像があり不動坂を短縮して「動坂」といわれたと標識に書かれていますが、この坂で「三四郎」で借家を探している与次郎と広田先生が偶然会っています。小説では「それから3人はもとの大通りに出て、動坂から田端の谷に降りたが・・・」と書かれています。また「青年」でも主人公の小泉が友人の瀬戸と出会い、動坂に住んでいる瀬戸から名刺をもらいます。尚、小説には登場しませんが、この動坂に行く間の千駄木には由緒ある大給坂(おぎゅう坂)と狸坂があります。

 また、今度は逆に団子坂から根津神社に下って行き、神社北側の裏門に沿って本郷通りを上る坂が(1)で「根津裏門坂」と紹介しましたが、この坂は漱石の自伝小説といわれる「道草」の冒頭に登場します。そこで、主人公の健三が養父と運命的な出会いがあり、主人公は先々、この出会いからが苦悶の始まりであることを暗示した坂です。そして、この坂は当然の事ながら鷗外の「青年」でも登場しています。

 さて、明治の文豪の2人は言うまでもなく、このあたりを常時、散歩道にしていたわけですから、彼らの小説の中に、この周辺の坂が物語のそれなりの意味合いをもって多く出てくるのは当然でありますし、夫々がときには物語りの重要なポイントの役目を果たしていると思います。特に、漱石の名作の「三四郎」「琴のそら音」「それから」「こころ」等の文学作品で多数の坂が登場しますが、それらは、早稲田名誉教授の武田勝彦氏の「漱石の東京」、作家井上明久氏の「漱石2時間ウオーキング」に詳しく書かれていますので、それをお読みいただくとして、これだけは小生が気に入っているという坂を2、3箇所紹介します。

 まず、大正3年に発刊された名作「こころ」に登場する富坂です。春日1丁目と小石川2丁目の間の広い坂です。昔は鳶が多くいたので鳶坂、転じて富み坂になったとの説があります。また春日町交差点の谷を挟んで、東西に坂がまたがって飛んでいるため、飛坂とも言われたらしいと聞きます。そして、本郷の方を東富坂真砂坂)ともいうようです。坂の南側一帯は現在の後楽園地区で東京ドームを始めとした遊興ゾーンとして賑わっています。  この富坂と呼ばれるこの坂を小説「こころ」では若き先生が散歩で下りてゆくときに、同じ下宿に住む友人Kと唐突に会い、Kの後に隠れるようにした好意を懐いている下宿のお嬢さんが立っているのを見つけます。この坂はこの小説での両者の葛藤が始まる運命的な出会いの坂であると、この坂を歩くときに何時も感慨をもって歩きます。30数年前までは電車が走っていましたが、今は写真のように幅も広い傾斜の少ない坂に変わっています。これまたかなり風情がなくなってしまっていますが、これも時代の流れかと思います。

東富坂(真砂坂) 春日町交差点から眺めた富坂
東富坂(真砂坂)
春日町交差点から眺めた富坂

 そして、先生はこれを契機にして、Kの留守の間に、Kがお嬢さんを愛している事を知りながら、お嬢さんをKに取られるかもしれないと心配して、母親にお嬢さんとの結婚を申し込み、承諾を受けます。そして、承諾を戴いた感激と興奮とわだかまりを抑えようとして、小石川界隈から、本郷台の菊坂も含む長い散歩に出ます。この後、Kは自殺し、先生の苦しみと葛藤に悶え始め、小説「こころ」の本題の様々の問題意識が高まっていきます。

 次に、小生の好きな漱石の小説「それから」で描かれる「金剛寺坂」です。この坂は春日2丁目4と5の間にありますが、曹洞宗恵日山金剛寺の東側の急坂を、寺の名に因んで「金剛寺坂」と呼びならわしたと聞いています。前述の荷風はこの坂を通り学校に通っていましたが、昭和16年に久しぶりにこの坂を訪ねて、昔を偲んで日記に記しています。前述の武田名誉教授の「漱石の東京」では、この坂は蝙蝠坂と呼ばれ、怖い坂で夜の人通りは少なかったそうです。この坂を「それから」の主人公の代助は愛する友人平岡の妻三千代を訪ねるために上り下りします。また代助は金剛寺坂の並行する急坂の「安藤坂」をよく歩いています。前述の作家の井上氏によるとこの坂の上り下りがこの小説の大きなポイントと指摘されています。

 この安藤坂は春日1丁目と2丁目の間で、神田川から家康の生母・於大の菩提寺で有名な伝通院に向かって上る坂です。幅の広い道で、明治42年に電車が走るまでは富坂同様坂の傾斜が今より急であったと聞いています。名前の由来は坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったということです。

 この小説の中で小生も2つの坂は意味ありげに書かれた坂であると思いますが、三千代を自宅に呼んで愛の告白をした後、2人は雨の中このあたりを歩きますが、この小説の最高の雰囲気が漂うところです。この小説が書かれた頃は急坂だったのでしょうが、2人の先行きを暗示するような気がしてなりません。何度読み返しても哀愁の気持ちで胸が一杯になります。「雨が小降りになったが、代助はもとより三千代を独り返す気はなかった・・・三千代が横町を曲がるまで見送っていた」とかなり激しく恋の姿を漱石は描いていると思います。

金剛寺坂 安藤坂
金剛寺坂
安藤坂

 以上が文豪の漱石・鷗外の作品に登場する坂ですが、その他文京区の坂の紹介では、前述の荷風の随筆「日和下駄」で書かれた坂の話をせねばなりません。彼はこのあたりの春日2丁目20番25号あたりで生まれています。彼のこの随筆の第十「坂」で以下のように書き綴っています。「今市中の坂にして眺望の佳なるものを挙げんか・・・丁度この見晴らしと相対するものは則ち小石川伝通院前の安藤坂で、それと並行する金剛寺・坂荒木坂・服部坂・大日坂等は皆斉しく小石川より牛込赤城番町辺を見渡すと良い・・・」と。荷風はご存知の通り、この伝通院あたりが生家ですから、この表現は当然かと思われます

 そして、この他、荷風の散歩コースである振袖火事で有名な本郷本妙寺坂、麹町清水坂、二番町樹木谷坂などが画趣詩情ある坂として書き込まれ、さらに神田明神裏の本郷の妻恋坂、湯島天神裏花園町の坂の如く神社の裏手にある坂を物珍しく観察しています。

 ところで、この湯島天神に上る坂は(1)で触れましたように、泉鏡花の「婦系図」も舞台として有名であります。しかし、早瀬主税とお蔦の悲恋物語は、明治40年に発表した原作にはこの湯島境内の場面はありません。この小説は連載中から有名になり新派の名舞台で演じられた時、湯島境内が付け足されたという話ですが、この男坂女坂のいずれからも上った境内には泉鏡花の筆塚があります。この「婦系図」は何度も映画化されて人気を呼び,そして、歌謡曲「湯島の白梅」も一世を風靡しました。

 そして、湯島天神北側を本郷に上る坂は石川啄木の歌集「悲しき玩具」からの歌碑がある有名な切通坂です。それについてはすでに(1)で紹介済みですが、いつもこの湯島の台地を切り開いて作られた坂を上る時には啄木を偲んでいますが、今日は交通量の多い騒々しい坂になっていて、啄木への哀感を吹っ飛ばしてしまった感じです。

 ついで、音羽に文豪鷗外の短編の舞台のその名もズバリ「鼠坂」という坂があります。小説には「小日向から音羽に降りる坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ない・・」と書かれた坂です。この坂は音羽1丁目10と13の住宅部にあり、階段つきの傾斜のある坂です。別名地元の人は水見坂と呼んでいたと聞きますが、都内有数の傾斜のきつい坂ではないかと思います。

 以上が明治・大正の文士の書き記した小説・歌の中の坂の話ですが、それ以外にも著名な文士がその作品の中で坂を書いています。それらを少し紹介したいと思います。

 まず自然主義文学の巨匠の一人の田山花袋の名作の「蒲団」は「小石川の切支丹坂から極楽水に出るまでダラダラ歩いて・・・」と切支丹坂から始まります。そして、同じく自然主義文学の重鎮の志賀直哉は「自転車」という散文でこの切支丹坂を描いています。13歳の時に、祖父に買ってもらったデイトンという米国製の自転車を東京都内・横浜の坂で乗り回し、そして「自転車でこの坂(切支丹坂)を降りたのはおそらく自分だけだろう」と書いています。当時の坂は自転車で下りるのは厳しかったのか知れませんが、今日はこのあたりは住宅街になりましたので、坂は補修されて、比較的ゆるやかになりました。

 ところで、この坂は小日向1丁目26と24の間にある坂ですが、この坂は春日2丁目と小日向4丁目の間の石段の庚申坂に地下鉄丸の内線のガードをくぐって繋がっています。「東京名所図会」によるとこの庚申坂切支丹坂と呼んでいますが、この案内にもその旨書かれています。ちなみに切支丹坂の案内板はありません。尚、切支丹坂は漱石の書の「琴のそら音」のなかでもどちらの坂を描いたのかわかりません。

 いよいよ文京区の坂で文士が表した作品の最後になりましたが、薄幸の女流文士の樋口一葉の思い出が多く残る菊坂を取り上げたいと思います。この坂は(1)で詳しく紹介しましたが、今は、本郷通りの文京センタービルの北横から西方1丁目の台地の下までの、長いダラダラ坂が菊坂です。一葉は父の死後の明治23年に菊坂下通りに移り住みました。彼女の明治期の女性の悲哀物語の「大つごもり」にこの坂は登場します。これは奉公に出るお峯の大晦日近辺の様子を描いていますが、この主人公のお峯は作者自身を重ね合わせたものと思います。さらに、一葉は鐙坂を何度も上り下りして生活していた事を膨大な量の日記に記されていますが、その中の「蓬生日記」で開橋したばかりの御茶ノ水の橋を妹の邦子とこの坂を上って見に行っている事が書かれています。達筆の日記は小生には原文のまま読むのが難しいので、解説つきで読みましたが、本当に彼女の感性の秀でた素晴らしさは誰もが認める文士の一人と思います。

菊坂 切支丹坂
菊坂
切支丹坂

− 以上 −
(文中写真の一部 : by M.Ogawa)

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