江戸坂見聞録
松本 崇男



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  愛宕[あたご]男坂・女坂

東京都港区愛宕1丁目



       長谷川雪旦画「愛宕社総門」           図@
『江戸名所図会』(天保九年1838)より 国立国会図書館蔵

A 男坂、B 女坂   図中(赤○内)に「男坂」「女坂」と書き込みがある。

天保年間(1830〜1844)の愛宕山と男坂・女坂
  『江戸名所図会』の挿図「愛宕社総門」(図@)の上半分に、愛宕山と樹間を山上に通じる男坂(A)女坂(B)が描かれている。山頂までまっすぐ登る急傾斜の石段が男坂、男坂の右側をやや緩やかに登る石段が女坂である。図の上方(赤マル部分)に男坂、女坂と書き込みがみられる。挿図下半分には愛宕社の別当寺円福寺(中央に鳥居が建つ参道左側の寺・明治の廃仏毀釈で廃寺)と寺中の五院(参道右側の寺院群)、その前を流れる桜川(関東大震災後暗渠化された)が描かれている。図の下に描かれた道が愛宕下広小路(現・愛宕通り)で、愛宕山に参詣する人は桜川に架かった小橋を渡り総門と鳥居をくぐって男坂、女坂の石段下に到る。この位置から見ると坂を登るのがためらわれるほどの急坂だ。江戸の人々も同様に感じたようで急坂を描写した文章も絵も多い。
 『江戸名所図会』は愛宕山の様子を「(略)そもそも当山は懸岸壁立(けんがいへきりゅう)して空(くう)を凌(しの)ぎ、六十八級の石階は、畳々(じょうじょう)として雲を挿(さしはさ)むがごとく聳然(しゅうぜん)たり。山頂は松柏鬱茂(うつも)し、夏日といへども、ここに登れば、涼風凛々(りょうふうりんりん)として、さながら炎暑をわする。見落(みお)ろせば三条九陌(さんじょうきゅうはく)の万戸千門は、甍(いらか)をつらねて所せく 海水は渺焉(びょうえん)とひらけて、千里の風光を貯へ、もっとも美景の地なり。(略)」と記している。要約すれば「(愛宕山は)空へ届きそうなほど高い。68段の石段が重なりあって雲がかかり、山上は松柏が茂っていて夏は風も涼しく暑さを忘れるほどだ。山上から見おろすと家々が甍をつらねて、その先には海が見えるとても美しい地だ」と云う。

急坂と山頂の眺め
 愛宕山は古くは桜田山といわれていたが、慶長八年(1603)愛宕神社が山上に勧請されていらい愛宕山(標高25.69m)と呼ばれるようになった。今でこそまわりを高層ビルに囲まれて高さを感じられなくなったが、御府内(江戸の町域)で最も高い山だった。それゆえに愛宕山は江戸の名所の一つで、特に山頂からの眺望と急傾斜(現・男坂の傾斜は37度)の男坂は人気があった。
 十方庵敬順(注1)は、愛宕山を訪れた時のことを『遊歴雑記』に「愛宕権現山の眺望(略)崖際の茶店に憩ひて眺望すれば、北は幽に浅草川の辺より、南は芝浦の海手迄更々目に障るものなく、其外築地の御堂御浜の茂林、海上を大小となく舟の行違ふ風情、深川、洲崎のあたりまで只一望にありて、絶景奇々妙々只記憶にのみありて、筆端には述べがたし、又眼下には御府内のやしきやしき町々を見下ろし、諸人の往来する様もおもしろく、云々」と記している。 幕末に日本を訪れたイギリスの初代駐日公使ラザフォード・オールコック(注2)も愛宕山を訪れその時の様子を書き記している。「われわれはやっと最初の休憩地(愛宕山)にとどりついた。門ごしに二つの階段が見える。ひとつは切り立ったように一直線に丘の頂上に達しているが、もうひとつの方は曲がりくねっていて、傾斜がゆるい。高さは同じであろうが、曲がりくねっている階段の方がはるかにゆるやかであるように見えたので、なだらかな見かけを信じるままに、本能的に右手の階段をえらんだ。多くの歩行者―とおくからの巡礼者や近辺のひまな江戸っ子たち―がのぼり降りしている。(中略)こうして、われわれは、愛宕山の頂上にたどりついた。ここの名前は、愛宕の神からきており、この神のために神殿がもうけられている。ここからながめた江戸湾や、その波が打ちよせる都市の景色は、ほかでは絶対にえられないような美しくてすばらしいものである。とつじょとして旅行者の目前にひらけた一幅の絵は、まことに印象的であった。この丘は、湾に面しているが、湾までには二マイルほどの谷間があり、そこは街や寺などでぎっしりつまっている。左手の方、すなわち西北の方向には、別の二マイルほどの平野があるが、そこも、多くの家が建てこんでいる。そしてその向こうには、大君の城[江戸城]のある一連の丘がある。(中略)海の方に目をやると、神奈川は岬があって見えないが、その反対側の海岸から二マイル沖に一連の砲台がある方向は、約二、三リーグ(約10〜15キロメートル)はなれたとおくの海岸線や山脈まで視野がとどく。」(『大君の都』山口光朔訳より)。ほぼ同じ頃に撮影された写真がのこっている。ここに掲載できなかったが、撮影者はフェリックス・ベアト(注3)で愛宕山から撮影したパノラマ写真には、眼下に展開する大名屋敷や家々の甍が遠方まで続きオールコックが眺めたと同じ江戸の町並みを見ることができる。
 見立番付(注4)は当時の人気のバロメーターとも云えよう。『江戸名所旧跡繁花の地取組番附』(吉田屋小吉板・東京都立中央図書館蔵)に、東の前頭二枚目として「愛宕山 西ノ久保、京の移シ古今絶景」と載る。 
 寛永十一年(1634)三代将軍徳川家光の御前で、四国丸亀藩の藩士・曲垣平九郎が騎馬で男坂を駆け上がり日本一の馬術の名人と讃えられ、男坂の石段を「出世の石段」と云うようになったという逸話も江戸っ子好みの話題であった。 この逸話も愛宕男坂が急坂ゆえに喧伝され後世に伝えられたものと言えよう。現在も男坂の坂下には「出世の石段」と書いた大看板が立っている。
 江戸の百科事典『和漢三才図会』(図B)(正徳二年・1712成立)は、わずか3行のスペースに男坂の石段の数を記している。このことは石段がよほど有名であったことを思わせる。

図B『和漢三才図会』→
「石段八十三段」とある。
国立国会図書館蔵 



愛宕男坂・女坂の築造年と坂の形状・段数
 慶長八年(1603)徳川家康の命により愛宕山に仮殿が建てられ、慶長十五年(1610)本社・幣殿・拝殿等が建立された。(『文政寺社書上』『江府名勝志』『武功年表』)石段(男坂・女坂)が築かれたのは慶長十五年のことと伝わる。『巌命銘要録』(東京市史稿より)に「芝愛宕山は、慶長十五庚戌(かのえいぬ)年、本社幣殿閣門石階 六拾八段悉(ことごとく)御造営あり。」と記されており、愛宕社本社・幣殿等が築かれた時と同時期であった。初期の男坂・女坂の姿は『武州豊島郡江戸庄図』(寛永九年・1632)(図C)に描かれている。

図C『武州豊島郡江戸庄図』部分→
(国立国会図書館蔵)に描かれた愛宕社
と男坂・女坂

 坂の形状をもっともよく表しているのは『江戸名所図会』に描かれた「愛宕社総門」(図@b)であろう。現在の男坂、女坂と比較してもその形状に大きな変化は認められない。
  ↑写真@ 現在の男坂・女坂
←図@b『江戸名所図会』部分
 『江戸繁盛記』(天保三年〜七年・1832〜36)は「石級二道あり、峻なるを男坂と云い、迂なるを女坂と云う。並びて東より上る、男坂は半身以上、鐺(くさり)を下して攀を援く。峻直なること知るべし。(原文は漢文)」と記す。『遊歴雑記』に「(略)表門を入程なく石坂に至る。幅凡そ二間石階の数七十二段、尤急にして目くるめき胆を冷し足振るへり、依りて石段の中程より真中に鉄鎖の太きを土中に建て、上下する人のたよりとせり、御府内にかかる火急の石坂なし。(略)又男坂の右に女坂あり。その数百八段ここをもって愛宕の山の独立して高きを察すべし。」とある。男坂には石段中央に鉄鎖を設けて石段の上り下りを助けていた。現在も同様に鉄鎖がつけられている。
図D 豊国「東都名所合 
愛宕」(国立国会図書館蔵)

写真A 現在の男坂

時代は変わっても、手すりにつかまり、おそるおそる石段を下る姿に変わりはない。それほどの急坂だ。

 江戸時代の男坂・女坂の石段の段数については諸説あり一定しない。また女坂の段数にふれていない文献が多い。男坂68段との記録(『新板江戸大絵図』(図E)、『江戸雀』、『江府名勝志』、『江戸名所図会』)が多いが、83段とする記録(『江戸図鑑綱目・坤』(図F)、『江戸総鹿子名所大全』『和漢三才図絵』(図B)、『江戸図正方鑑』)もある。上記以外に『遊歴雑記』に男坂72段、女坂108段、『筆つひで』(注5)に男坂61段とする記述が残る。
←図E『新板江戸大絵図』寛文十年(1673)
「石ダン六十八」とある。国立国会図書館蔵


図F『江戸図鑑綱目・坤』
元禄元年(1688) →
「石階八十三」とある。
 国立国会図書館蔵 

石段の段数については、江戸幕府が寺社にその沿革提出を命じた記録であることから『文政寺社書上』(注6)の記述を重んじたい。 
←図G『文政寺社書上』
国立国会図書館蔵
円福寺(愛宕社の別当寺)書上げ。

『文政寺社書上』(文政年間)に男坂と女坂の詳細な記録が残されている。
男坂 石階六拾八段 但し長さ京間拾五間半壱尺七寸
横幅京間三間
両脇下水横幅壱尺二寸左右に居垣有之
下石階三段長さ京間三尺横幅京間四間四尺
右出来年号不知
     (石段68段、長さ約30.1m、幅約5.7m)
女坂 石階九拾六段 長さ二拾四間
上横幅四間五寸
下横幅二間

     (石段96段、長さ約45.8m、幅石段上部約7.8m・下部3.8m)

 一方、現在の男坂は86段、女坂107段であるところから、江戸の記録とは齟齬がある。この事について『新撰東京名所図会』は以下のように指摘している。「石級の数、和漢三才図会、及ひ江戸鹿の子には記して八十三段といひ、江戸砂子、江戸名所図会等には皆記して六十八段といへり。今親しく就きて之を検するに、男坂は八十六段、女坂は百七級あり。されど六十八段と記すもの甚た多きを見れば、或は後世改造せしにや。未だ詳なるを得ず。」とし、続けて男坂の石垣に刻まれた改修記録や明治17年(1884)の再建記(注7)を付記している。 「石級の左右に石垣を設けあり。皆新橋金春及ひ烏森町の芸妓の寄進せし者にて、下の左の石垣には、五番組鳶中、石階玉垣世話人子組武蔵屋金八と刻し、之に次ぎて、新橋世話人武蔵鉄五郎以下の十三人の名を刻したり(写真B)。又右の石垣には新橋伊勢源と刻し、之に次ぎて、新橋烏森町の芸妓亀鶴屋米吉以下十一人の名を刻したり。(写真C)是より以上級を盡すに至るまで、左右一石毎に寄進者の名を刻し、級盡きて山上に出れば、亦左右に高二尺余、幅五尺余の石垣を設く。其左の石垣には、慶應二丙寅年三月修復再建。手回廻部屋頭中と刻し、右の石垣には、左の如く刻したり。
 再建記 愛宕山者(は)徳川氏所勤請也。嘉永三年二月 罹火災。爾後、慶應元年本社再建。明治十年拝殿廓成。十二年男坂鉄鎖舗設。竝十七年男坂及女坂石玉垣成矣。此挙偏由有志之賛助所成功也。明治甲申
(注:明治17年)冬十一月 神官 松岡徳善勤誌

   写真B↑           写真C↑     写真D→
写真D:男坂下の鉄鎖支柱に刻まれた再建日付には「明治十三年十    二月廿四日」とある。

 明治17年の「再建記」にある「嘉永三年二月 罹火災」とは、麹町の大火(注9)と言われる火事で嘉永三年(1850)2月5日麹町から出火、芝増上寺まで燃え広がった火災の事で、愛宕神社では本社・仁王門・額堂が燃えた。結果、慶応元年(1865)から明治17年(1884)にかけて本社再建をはじめ様々な工事がなされたのであった。しかし男坂・女坂の石段を積みなおしたとの記述はなく江戸の諸誌による記録「男坂68段、女坂96段」と現在の男坂86段、女坂107段」との齟齬について詳細は依然謎のままだ。

(注1)十方庵敬順(宝暦十二年〜天保三年・1762〜1832)
小日向水道端(現東京都文京区水道)にあった郭念寺の住職。51歳で隠居後、 好風景を求めて各地を訪れ『遊歴雑記』を著した。
(注2)ラザフォード・オールコック(Rutherford Alcock)
初代イギリス駐日公使安政六年五月(1859.6)〜文久二年二月(1862.3)の間、日本に滞在。著書に開国後の日本を紹介した『大君の都』がある。
(注3)フェリックス・ベアト(Felix Beato 1832〜1909)
イタリア生まれのイギリスの写真家、1863年から1884年まで日本に滞在して日本各地の名所、風俗、人物を撮影した。愛宕山からみた江戸のパノラマ写真は慶応元年(1865)〜慶応二年(1866)の撮影と伝わる。
(注4)見立番付
相撲番付にならってさまざまな事物に序列をきめた番付表。江戸・明治に流行した。
(注5)三田村鳶魚は「愛宕山の男坂」と題して「山中共古翁から頂戴した『筆つひで』という随筆に、嘉永七年四月二十七日、愛宕の別当円福寺で聞いたのに、昔から男坂を騎乗した者が三人あるその第一番の人は格別の手柄だと伝えられた。その頃の坂は大変急であって、参詣人も皆女坂から登らせて、男坂からは通さなかった。当時の石段は、丸石で六十一段あったが、今(嘉永七年)は角石で八十三段になっている、と話したままを書いてある。(後略)」と記している。(中公文庫 鳶魚江戸文庫28『足の向く儘』所収)
(注6)『文政寺社書上』 
江戸幕府は文政九年(1826)から『御府内風土記』の編集をはじめて文政十二年(1829)完成した。編集に際し各町、寺社から提出させた資料が『町方書上』と『寺社書上』である。『御府内風土記』は明治5年火災で焼失した。
(注7)『新撰東京名所図会』に記述された愛宕男坂・女坂の石垣に刻まれた改修記録のうち、寄進者名と(写真BC)鉄鎖支柱に刻まれた再建日付(写真D)は現在も同じ場所にあるが、坂上にあったという再建記はその後新たに改修された改修記念碑に建て替えられて見ることができない。
(注8)石鳥居:『寺社書上』に「男坂下 石鳥居 高さ三間五寸」とある。
(注9)麹町の大火:「嘉永三年(1850年)二月五日晴天、乾(北西)大風土砂を飛す。巳刻(午前10時)麹町五丁目続き岩城升屋の後なる、高田放生寺の拝借地に在る見守番人の家、炭団屋より出火して、烟西東南に被り、一時に燃広がり、黒烟天を焦がし(中略)・・・愛宕山本社二王門額堂(を焼き)・・・夜戌下刻(午後9時)漸に鎮火せり。諸侯の藩邸五十二宇、小名九十二宇、町院十九宇の餘、町数五十七町なり、長凡三十三町餘(約3.6km)、幅廣狭平均して四町の餘(約400m)と聞り。焼死怪我人数ふべからずとぞ。」(『武功年表』より)

【参考文献】
『江戸名所図会』(天保九年1838)国立国会図書館蔵
『和漢三才図会』(正徳二年・1712成立)国立国会図書館蔵
『遊歴雑記』(文化十一年〜文政十二年)十方庵敬順著 江戸叢書
『江戸名所旧跡繁花の地取組番附』(吉田屋小吉板・東京都立中央図書館蔵)
『大君の都』ラザフォード・オールコック著・山口光朔訳 岩波文庫
『武州豊島郡江戸庄図』(寛永九年・1632)国立国会図書館蔵
『東都名所合 愛宕』歌川豊国 国立国会図書館蔵
『江戸繁盛記』(天保三年〜七年・1832〜36)国立国会図書館蔵
『江戸繁盛記』寺門静軒著・朝倉治彦校注 平凡社
『新板江戸大絵図(寛文五枚図)』(寛文十年・1673)国立国会図書館蔵
『江戸図鑑綱目・坤』(元禄元年・1688)国立国会図書館蔵
『文政寺社書上』(文政年間)国立国会図書館蔵
『御府内備考』大日本地誌大系編輯局編 雄山閣
『江府名勝誌』藤原之廉撰・横関英一校注 有峰書店刊
『江戸・町づくし稿』岸井良衛 青蛙房
『武功年表』斉藤月岑著・金子光晴校訂 東洋文庫・平凡社刊

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