江戸坂見聞録
松本 崇男



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南部坂なんぶざか(赤坂)
           東京都港区赤坂二丁目と六本木二丁目の間

尾張屋板『六本木・赤坂絵図』万延二年(1861)部分図に加筆

南部坂の由来
 上掲の地図(以下切絵図と記す)、Ⓐ松平美濃守(筑前福岡藩黒田家)とⒷ真田信濃守(信濃松代藩真田家)の両屋敷の間に「南部坂」の名が記されている。江戸の地誌『紫の一本』(天和三年・1683)は「南部坂 赤坂のうち、黒田氏松平右衛門佐の下屋敷の後なり。むかしここに南部殿の屋敷ありつる故なり。」と述べており、南部坂の近辺に南部家の屋敷があったことをうかがわせている。『紫の一本』のいう黒田氏松平右衛門佐とは、筑前福岡藩黒田家三代藩主松平右衛門佐光之である。切絵図にある松平美濃守は筑前福岡藩黒田家十一代藩主長溥(ながひろ)をさしており、この場所は明治にいたるまで筑前福岡藩黒田家の中屋敷であった。また、『御府内備考』(文政九年〜十二年・1826-1829)は、「南部坂 右者町内北之方ニ有之赤坂氷川邊え之往還ニ御座候往古南部様御屋鋪有之南部坂と唱候由申傅候得共書留焼失仕委細相知不申候」(南部坂は町の北の方にあり、赤坂氷川への往還です。昔南部様のお屋敷があったので南部坂と唱えたと伝えられてきたが書類が焼失したので詳しくわからない)と南部坂の名の由来を伝えている。坂の名前は陸奥盛岡藩南部家の下屋敷に由来するのだが、坂周辺に南部家の名は見当たらない。

南部家の屋敷はどこにあったか?
 南部家の屋敷が坂周辺に見当たらないものの、南部坂が南部家の屋敷があったことから名付けられた坂である以上、南部坂の近くに南部家の屋敷があったはずである。では、南部家の屋敷があった場所はどのあたりであったろう?

 明暦二年(1656)二月、南部山城守重直の赤坂築地の下屋敷と浅野内匠頭長直(「忠臣蔵」で有名な浅野内匠頭長矩の祖父)の麻布屋敷が相対替えされて、赤坂に赤穂浅野家の屋敷ができた。(相対替えの詳細は「南部坂(麻布)」参照)・・・ということは、明暦二年後の浅野赤穂家の屋敷をさがせば南部藩の屋敷があった場所を推測できるわけだ。とはいえ・・・浅野赤穂家は、浅野内匠頭長矩が吉良上野介に刃傷に及んだことから元禄十四年(1701)にお家断絶となった為、以後の地図に浅野赤穂家の名前は出てこない。


←左図:
『正保年間江戸絵図』(正保元年・1644〜正保二年・1645)
赤坂の部分。中央に「南部山城守下ヤシキ」とある。



←左図:
『新板江戸大絵図(寛文図』(寛文十三年・1673)のうち赤坂の部分図である。図中、中央右寄りに「なんぶ坂」の名。中央やや左寄りに「アサノ采女」とある。

赤穂浅野家下屋敷の変転
 『正保年間江戸絵図』(正保元年・1644〜正保二年・1645)に、「南部山城守下ヤシキ」と記されていた場所が、寛文十三年(1673)の『新板江戸大絵図(寛文図)』では、「アサノ采女」の屋敷にかわっている。『正保年間江戸絵図』は南部家と浅野赤穂家の間で相対替えされた明暦二年(1656)より12〜3年後の地図ではあるが、「なんぶ坂」と「アサノ采女」の屋敷の位置から「南部山城守下ヤシキ」のあった場所がより具体的に確認できる。「アサノ采女」というのは浅野赤穂家三代藩主・浅野采女正長友(寛永二十年・1643〜延宝三年・1675)である。浅野赤穂家の屋敷がどの辺であったか、別の地図で見てみよう。下の図は『御府内沿革図書』の赤坂辺を描いた地図である。地図上辺中央に「浅野又市」とあるのは、時代から見て「アサノ采女(浅野采女正長友)」の後を継いで四代藩主となった浅野内匠頭長矩(寛文七年・1667〜元禄十四年・1701)を指していると考えられる。(内匠頭長矩は、幼名を「又一郎」或は「又市郎」といい9才で家督を相続している。)

@『御府内沿革図書』延宝年中の図(1673−1681)

 上掲の@地図中央に「浅野又市」とある土地の主はさらに移り変わっていく。『御府内沿革図書』元禄十年(1697)の地図では敷地が縮小され「浅野内匠頭」② とあり、元禄十四年(1701)の地図では③「天野傳四郎」と変わる。元禄十四年(1701)は、浅野内匠頭長矩が殿中で高家吉良上野介義央に斬りつけ、即日切腹を命じられ改易となった年である。享保八年(1723)から元文二年(1737)の地図では明地となっているが、寛政六年(1794)には ④ 柴田七九郎の屋敷地となり以後柴田家(旗本 五千五百石)の屋敷地として明治に至っている。柴田七九郎の屋敷地というのは切絵図(万延二年・1861)ではⒸ の位置に「柴田松之丞」と記されている。


② 『御府内沿革図書』
元禄十年(1697)

③ 『御府内沿革図書』
元禄十四年(1701)

④ 『御府内沿革図書』
寛政六年(1794)

 ここまでくればこの地が氷川小学校のあった場所であり、現在では港区赤坂6丁目の特養老人ホームサン・サン赤坂や氷川武道場がある一画であったことが明確となる。こうしてみると南部坂の由来となった南部藩下屋敷と南部坂の距離は120mほどのものだ。つまり南部坂は南部藩下屋敷へ行く途中の坂だったわけである。蛇足ながら明治5年(1872)、勝海舟は旗本柴田家の屋敷を買い取って移り住んでいる。(こうしてこの地に住んだ人々の変転をみてくると、人にも土地にもそれぞれの歴史があるものだと感慨深いものがある。)

南部坂・難歩坂について
 南部坂(赤坂)に関する記録はいくつか残っているが『御府内備考』に「南部坂 登凡三拾八間(69m)巾凡貮間三尺(4.5m)」とあることから比較してみると、江戸の南部坂は現在とほぼ同じ規模の坂であったようだ。この坂が南部坂と名付けられたのは、陸奥盛岡藩南部家の屋敷がこの地にあった明暦二年(1656)二月以前のことであったが、南部家がこの地から麻布へ移った後も南部坂と呼ばれ続けられたのである。もっとも、明治になって難歩坂と書いた時代があった。

 「難歩坂 箪笥町の方より第三大区八小区福吉町の方へ上る。もとは南部坂と書て昔此辺に南部氏の邸ありしより出たる名なりと云へり。さるを頗る険しき坂なれは近く難歩の字に改めたり。長三十間幅三間」(『東京府志料』明治5年・1872〜7年・1874)
 「麻布箪笥町より赤坂福吉町の方へ上る坂路を難歩坂と称す。昔、南部邸ありしを以て、初め南部坂と称せりと。元禄年間温清軒の江戸絵図を見るに、ナンブサカと載せて、南部の邸なし、されば其以前なるべし。江戸砂子に南部坂、万延の切絵図また之におなじ、難歩坂と改めたるは近年なり、険峻にして行歩艱難の意を取れりとかや。」(『新撰東京名所図会』明治29年・1896〜明治41年1908)
 坂が険しく歩くのが困難なことから、明治の一時期には難歩坂と呼んだというのだが、今の坂の様子から思えばとても想像しがたい。

 南部坂と云えば忠臣蔵の一場面「南部坂雪の別れ」がよく知られている。「御納戸羅紗の長合羽、爪がけなした高足駄、二段はじきの渋蛇の目、あとに続くは大石の、ふところ刀寺西矢太夫、来たるは名代の南部坂」桃中軒雲右衛門が浪曲「南部坂雪の別れ」のなかで、主君浅野内匠頭長矩の仇討ちのため吉良邸討ち入りを目前にした大石内蔵助が、主君の奥方・瑶泉院にひそかに別れを告げに向かう場面の一節である。しんしんと降り積もる雪の中、蛇の目傘をさした大石内蔵助が南部坂を上ってゆく場面が目にうかぶようだ。今も浪曲、講談、映画、演劇等で繰り返し上演され親しまれている。赤坂の南部坂が「南部坂雪の別れ」ゆかりの坂である。元禄十四年(1701)、浅野内匠守長矩が吉良上野介に刃傷に及びお家断絶となったのちに瑶泉院が預けられたのが、氷川神社の地にかってあった瑶泉院の実家・備後三好浅野家の屋敷であった。氷川神社(切絵図Ⓓ)は、享保五年(1720)継嗣がなく改易となったため没収された備後三好浅野家の屋敷跡に建ったものである。実際には大石内蔵助は瑶泉院を訪ねてはいないとの説が有力であるが、史実はともあれ、南部坂とその周辺は「忠臣蔵」に縁の深い場所であった。

 現在の南部坂(赤坂)

六本木二丁目にあるアメリカ大使館宿舎北側の敷地に沿って北西に上がる坂である。ようやく車が通れるほどの道幅しかないせいか交通量は少ないのでゆったりと散策できる。


 本稿執筆に際して『江戸の坂 東京の坂』横関英一著 中公文庫版より「二つの南部坂と浅野屋敷」を参考にさせていただきました。「伯爵南部家回答」『正保年間江戸絵図』『新板江戸大絵図(寛文図)』など、あらためて元の資料を点検しましたが、横関氏の研究に負っていることをおことわりしておきます。(横関英一氏の研究に尊敬と感謝をこめて)

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