江戸坂見聞録
松本 崇男



霞が関坂
行人坂
神楽坂
地蔵坂
六角坂
南部坂(麻布)
南部坂(赤坂) 淡路坂 昌平坂 清水坂 御薬園坂 車坂・屏風坂・信濃坂 愛宕男坂・女坂 柘榴坂 明神男坂・女坂

  明神男[みょうじんおとこ](別名:石坂・明神石坂)明神女[みょうじんおんな]
江戸の坂名・石坂(明神石坂)と明治の坂名・明神男坂と明神女坂

東京都千代田区外神田2丁目


長谷川雪旦画「神田明神社」(『江戸名所図会』巻の五 天保七年・1836)
(矢印、大鳥居、随身門、社殿、石坂の文字加筆) 絵の右下隅に神田明神から東方向へ下る石段が描かれている。坂名は記されていない。

江戸の坂名・石坂(明神石坂)
 神田明神社(註1)は天平二年(730)武蔵国豊島郡柴崎村(現在の千代田区大手町、将門塚付近)に創建され、のち慶長八年(1603)駿河台の鈴木町に転じ、さらに元和二年(1616)現在地に遷座したという。神田明神が祀られた場所は本郷台地の東南端にあたり、境内はおおむね標高20mほどに位置し高低差はない。神社正面に位置する大鳥居(標高16.8m)と随身門(標高19.9m)の間をゆるやかな坂(名前はない)が結んでいる。一方、神田明神東側と北側は急な崖地に面している。神田明神境内の東南端(標高19.6m)から明神下(標高6.8m)へ真直ぐに下る石段が石坂(明神石坂)で高低差は12.8mある。境内東端には茶屋があり高い建物などない江戸時代には眺望で知られた名所でもあった。
 「当社の境内つねに賑わしく詣人(けいじん)たゆることなし。茶店(さてん)おのおの崖に臨んで、遠眼鏡などを出だして風景を玩(もてあそ)ぶのなかだちとす。ことさら近来は瑞垣(みずがき)に桜樹をあまた植えければ、弥生の頃もつとも美観たり。」(『江戸名所図会』)

左上 広重『名所江戸百景 神田明神曙之景』       右上 『江戸名所図会』挿図部分
広重の『名所江戸百景 神田明神曙之景』は、正月元旦の早朝、東の空が明るくなるのを眺める神官たちを描いている。図ではわかり難いが、境内の東端は崖でそこから江戸の家並みが一面に広がるのが見えた。石坂を上り鳥居をくぐった右には茶屋(赤マル印の箇所)が腰掛を並べている。参詣した人々は茶屋で休みながら眼下に広がる眺望を楽しんだ。

 この坂が「明神男坂(男坂)」と呼ばれるようになったのは明治以降のことで、江戸期を通じて「石坂」あるいは「明神石坂」と呼ばれていた。「明神女坂(女坂)」は、明治初期に開かれ後に廃された坂で、神田明神境内の北側を湯島3丁目側へ下る坂であった。煩雑になるのでこのことは後で記す。
 『江戸町づくし』(文政四年・1821)は、「明神石坂 神田明神うらの金沢町へ出る」とし、『万世江戸町鑑』(天保六年・1835)は「石坂 かんためうじんうら門の坂 金さハ丁にいつる所」と記している。

  上 『万世江戸町鑑』国立国会図書館蔵
左 『江戸町づくし』個人蔵

 『御府内備考』は「石坂 高さ四丈余、幅二間、右町内東之方に有之候、明神裏門の坂にて登十八間、内上の方六間町内持に御座候」(神田明神表門前 丁亥書上)、「町内西の方に明神裏門へ上り候石坂有之候、右は明神表門より申上候通に御座候、尤登り拾八間、内下の方拾貮間町内持に御座候」(神田明神裏門前 丁亥書上)と記している。江戸時代、道や坂の修繕は坂付近の武家、寺、町屋などがそれぞれ負担していた。石坂の場合、坂の長さ18間(約32.4m)、幅2間(約3.6m)のうち、坂上部分6間(約10.8m)を神田明神表門前町、坂下部分12間(21.6m)を神田明神裏門前町が受持っていた。坂の大きさだけでなく管理修繕についてもふれていて江戸の坂を記した貴重な記録だ。
 「天保の初年(1830年頃)当時神田の町火消「い」「よ」「は」「萬」の四組が石坂を明神へ献納した。それは明神下から奥山へ高い石段を築きあげたものである。」と『神田文化史』にある。とはいえ、石坂の記録はすでにそれ以前からあることから、石坂は神田の町火消による石坂献納以前から存在していたことは間違いない。さらにいえば石坂の名前は記されていないものの、『寛文五枚図』(寛文年間・1661-73)(地図1)や『江戸方角安見図』(延宝八年・1680)(地図2)に坂印IIIIIが見られることから石坂は寛文年間すでに存在していた。石坂の名は『万世江戸町鑑』(宝暦七年・1757)に「石坂 同明神裏門」、『再校江戸砂子』(明和九年・1772)挿図「神田社」に「石坂」と載るのが古い記録と思われる。
 地図1『新板江戸外絵図』部分
  国立国会図書館所蔵
  地図2『江戸方角安見図』部分に加筆
   国立国会図書館所蔵
← 地図3『再校江戸砂子』国立国会図書館蔵
神田社挿図右隅に石段が描かれ、「石坂」の名が記されている

石坂の名称について
 江戸時代、ほとんどの坂は土の坂であった。坂に限らず舗装された道路が当たり前になった現代では想像し難いが、雨が降ればぬかるみ、風が吹けば土埃が舞い上がる。まして坂ともなると土は流され、人はぬかるみに足をとられて滑ったり転んだりする。そこで坂に土留めを施し、仕切り板をいれて土の流失を防ぐ対策をしてきた。石坂(註2)は石材を積んで階段にした坂の名称だが、石を積み上げることで土砂の流失は無くなり、坂の昇り降りも格段に楽になった。しかし石段を築くための工事に多大な労力と費用を必要とした。 本稿で取り上げた神田明神の他にも愛宕男坂(愛宕神社の石段坂)や天神男坂(湯島天神の石段坂)などは「石坂」とも呼ばれた坂だが、すべて神社の坂である。石坂が 神社の参道や階段に多いのは、石坂を築くほどの金を工面できる環境にあったからといえよう。その一例が先に記した町火消しによる石坂寄進であった。赤羽八幡神社の正面参道わきには「石坂碑」が建っているが、そこには多くの人名(寄進者の名前)と金額が刻まれている。石段を築いた際の記念碑であろう。

明神男坂と明神女坂
 男坂がなければ女坂はないし、女坂がなければ男坂も存在しない。つまり男坂と女坂はふたつの坂名をセットで呼ぶ名称である。江戸時代「石坂」あるいは「明神石坂」と呼ばれていた坂が「明神男坂」と呼ばれるようになったのは、新たに「女坂」が開かれたからにほかならない。
 『東京府志料』(明治5-7年・1872-74)に「神田神社 (略)社は丘上にあり東北崖地にて眺望に富り。境内に男坂女坂あり、いつれも石階なり。男坂長十二間(21.6m)幅二間(3.6m)、女坂長十七間(30.6m)幅一間半(2.7m)。」とあることから、明治になって早々に坂が開かれたことが分かる。江戸期を通じてずっと「石坂」あるいは「明神石坂」と呼ばれてきた坂が『東京府志料』に至ってはじめて「男坂」「女坂」として呼ばれるようになった記録が現れる。坂名こそ記されていないが「男坂」「女坂」の位置を記した記録は他にもある。『五千分一東京図測量原図 神田区駿河台及本郷区湯島近傍』(明治16年・1883)に男坂と女坂が描かれている。男坂は現在(神田明神境内の東南端)の位置と変わらないが、境内の北東隅から北東方向へ下る新たな坂(女坂)が載っている。坂(女坂)は坂の途中で二方向へ分岐し、一方はそのまま北東へ下り他方は西に向きを変えさらに下っている。『一万分一東京近傍地形図・日本橋』(明治42年測図大正5年第1回修正測図)(地図4)も坂名を記していない。男坂(明神男坂)は旧に変わらないが、女坂は北へ下る石段坂に改修されており『五千分一東京図測量原図』の女坂とは姿が変化している。

← 地図4『一万分一東京近傍地形図・日本橋』部分

神田明神境内から現在の湯島3丁目方向へ下る新坂が載っている
 神田明神境内から現在の湯島3丁目方向へ下る新坂(女坂)が開かれたことによって、前から在った石坂は男坂あるいは明神男坂に、新坂は女坂あるいは明神女坂とよばれるようになっていったものと考えられる。しかし明神女坂は後に廃道となった。
 男坂・女坂の定義だが、本来は「社寺の参道などで、相対する二つの坂のうち急な坂が男坂、傾斜の緩やかな坂が女坂」(『広辞苑』)であった。最近では社寺以外の場所、たとえば町中や山道の坂にも男坂・女坂と名づけられたケースを耳にすることがある。社寺に限って使っていた名称が広がって使用されるようになっている。
 さて近年、「明神女坂」と称されている坂がある。明神男坂の南側「坂のホテルレティオお茶の水」(東京都千代田区外神田2-17)脇の坂だ(写真2)。どのような経緯からこの坂を「明神女坂」と呼ぶようになったか不明だが、神田明神の参道でない坂(石段)を明神女坂と呼ぶにはいささか無理があるように思う。理由はいくつかある。明神男坂は神田明神境内に接している坂だが、「坂のホテルレティオお茶の水」脇の石段坂は神田明神境内に接していないこと。(社寺の参道の坂が男坂・女坂の基本形である。)明治に開かれ、すでに消滅した明神女坂がかつて存在したこと。明神女坂は消滅したが、その跡地近くに新たに開かれた坂(写真3)があること等がその理由である。ちなみに神田明神境内案内図(写真4)には裏参道(旧女坂)と紹介されている。裏参道の石段こそが女坂にふさわしいと言えよう。

 写真1:明神男坂 写真2;レティオお茶の水脇の坂  写真3:神田明神裏参道

写真4:神田明神境内案内図  
案内図には 41明神男坂、23裏参道(旧女坂)とある。
 (画像をクリックすると拡大します)

【註】

註1 江戸時代は神田明神と名乗っていたが、明治5年(1872)社号が神田神社に改められた。本稿では旧称の神田明神を使用した。
註2 石坂の名称由来には例外もある。石ころの多い坂を「石坂」と呼ぶ場合や、由来のわからない石坂もある。石坂のすべてが石段坂というわけではない。

【参考文献】
『江戸町づくし』
『江戸名所図会』国立国会図書館蔵
『新訂江戸名所図会』市古夏生・鈴木健一校訂 ちくま学芸文庫
広重『名所江戸百景 神田明神曙之景』国立国会図書館蔵
『江戸町づくし』個人蔵
『万世江戸町鑑』国立国会図書館蔵
『御府内備考』大日本地誌大系編輯局編 雄山閣
『御府内備考続編 神社部』東京都神社史料
『神田文化史』中村薫著、神田史蹟研究会発行
『新板江戸外絵図(寛文五枚図)』国立国会図書館蔵
『江戸方角安見図』国立国会図書館蔵
『江戸砂子』国立国会図書館蔵
『江戸砂子温故名跡誌』小池章太郎編 東京堂出版復刻
『東京府志料』東京府
『東京地理沿革誌』村田峰次郎編著
『新撰東京名所図絵』(復刻『東京名所図会』睦書房)
『一万分一東京近傍地形図・日本橋』
『広辞苑』岩波書店刊

トップページに戻る | このページ上部へ