江戸坂見聞録
松本 崇男



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南部坂なんぶざか(麻布)
           東京都港区南麻布四丁目と五丁目の間

尾張屋板『麻布絵図』文久元年(1861)部分図に加筆

 上掲の地図中央に「南部美濃守」(Ⓐ の箇所)とあるのが、陸奥盛岡藩南部家の下屋敷である。南部家下屋敷は現在の有栖川記念公園、都立中央図書館、港区麻布運動場、愛育病院の敷地を併せた28,000坪(92,400u)にのぼる広大な敷地で、東側が高く西に向かって傾斜している(江戸の地図は方位が地図によって異なるため上が北をさすとは限らない。上掲地図の場合は上が東南にあたる。)屋敷の北西側と南側に面した道が坂になっている。北西側の坂は木下坂(備中足守藩木下家の屋敷Ⓑがあったことに因む坂名)、南側の坂が南部坂で、松平主水Ⓒ ・酒井壱岐守Ⓓ・平野兵庫助Ⓔの屋敷の間を西に下っている。上掲の尾張屋板『麻布絵図』に南部坂の名はないが、同時代に出版された近江屋板(金吾堂)『麻布六本木辺絵図』嘉永二年(1849)版には「ナンブ坂」の名が記されている。

 坂名は『御府内備考』(文政九年〜十二年・1826-1829)に「右当町より東の方 南部信濃守様御中屋敷前にこれあり、里俗南部坂と唱え申し候」とあるように、南部家の屋敷の前の坂であったことに因んだものである。「登りおよそ30間余(約55m)、幅5間半余(10m)」(『御府内備考』)の坂だったと云う。もっとも東京府志料(明治5年・1872〜明治7年・1874)には、「南部坂 西の方新笄町との界を南へ下る 長43間(78m)幅3間(5.5m)」とあり、両資料の出版された時代に50年ほどの間があるとはいえ、坂の長さ・幅ともに大きな違いが認められる。

 南部坂は江戸時代すでに同名の二つの坂があった。麻布の南部坂と赤坂にある南部坂である。両坂は江戸時代にそう呼ばれていたように今も南部坂と呼ばれているのだが、その二つの坂名の由来にはかかわりがあった。

 『正保年間江戸絵図』(正保元年・1644〜正保二年・1645)は、その頃の江戸を描いた地図である。同地図の赤坂辺(下左の図 現・港区赤坂5・6丁目とその周辺にあたる)に、「南部山城守下ヤシキ」とあることから正保元年(1644)〜正保二年(1645)頃には、赤坂に南部家の下屋敷があったことがわかる。地図とはいえ同図は現代の地図の感覚から思えばかなり大雑把なものだが、近くに「松平安蓺守屋敷」(現・赤坂サカス・TBSのある地)、右上の青い色の箇所は溜池(現在は埋めたてられて池はなく、地名だけが残っている)で、これらのことから南部家があった場所が推測できる。

↓ 下図中央:『正保年間江戸絵図』
  (正保元年・1644〜正保二年・1645)より
  赤坂にあった南部山城守下屋敷
右図中央:麻布にあった浅野内匠(頭)
     下屋敷 →

 いっぽう、『正保年間江戸絵図』の麻布辺(上掲右図)に「浅野内匠下屋敷」の名がある。周辺一帯は「百姓地」ばかりであるが、右上に「御薬種畠」とあるが、これは幕府の「御薬園」であった。右端上下に連なる青色は、古川である。

 記録によると、明暦二年(1656)二月に南部山城守重直の赤坂築地の中屋敷(『正保年間江戸絵図』は下屋敷としているが南部家資料は中屋敷と記述している。)と浅野内匠頭長直の麻布下屋敷が相対替したとある。
当家(南部氏・山城守重直)所有築地中屋敷と浅野内匠頭(長直)所有麻布一本松下屋敷と交換。当家より夏井門兵衛、原平兵衛、浅野家より荒高文左衛門、山田作左衛門立ち合い、受取渡結了。
(備考)、一本松屋敷は、明治初年迄持ち伝えしが、付近南部坂なる地名あるより推考するときは、市街草創の際より所有せる敷地を裡足して下屋敷に取据えたるものなるべし。
」(「伯爵南部家回答」より『東京市史稿』市街篇06-1095)

 明暦二年(1656)屋敷を相対替したのちの地図を見てみよう。下図は相対替した17年ほど後の地図、『新板江戸大絵図(寛文図』)(寛文十三年・1673)だが、浅野屋敷のあとに「南部大ゼン」、南部屋敷のあとに「アサノ采女」の名があり両家の屋敷がそっくり入れ替わっていることがわかる。


『新板江戸大絵図(寛文図』(寛文十三年・1673)


←図の中央、三角形の敷地が麻布へ移転した南部家屋敷で「南部大ゼン」とある。



『新板江戸大絵図(寛文図』(寛文十三年・1673)


←図の中央やや左寄りに「アサノ采女」とあるのが赤坂へ移転した浅野家屋敷

 明暦二年(1656)二月、赤坂にあった南部家は浅野家下屋敷のあった麻布の地に移り、以後明治になるまでこの地に屋敷を構えていた。いつ頃から南部坂と呼ばれるようになったかについての記録はみあたらない。いずれにしても赤坂の南部坂は、南部家の屋敷が赤坂にあった頃すなわち明暦二年(1656)以前すでに南部坂と呼ばれていた坂であり、麻布の南部坂は南部家の屋敷が麻布に移ってきた明暦二年(1656)以後に南部坂と呼ばれるようになったことは明らかである。伯爵南部家回答によれば(麻布)南部坂の名称は南部家が赤坂から麻布へ屋敷を移した時に(赤坂)南部坂の名称を移したとも読み取れるが、「南部家回答」は明治になってから書かれた文書であり、「備考」以下については推定にすぎないので根拠とするには難しいように思う。

 それにしても南部家が麻布に移ってきた明暦二年(1656)頃の田舎ぶりと比べてみると、尾張屋板『麻布絵図』文久元年(1861)の地図からは、江戸の発展がかいま見えるのである。

 現在の南部坂(麻布)

 地下鉄広尾駅の東150m、徒歩2分ほどの場所に有栖川記念公園がある。坂下の有栖川公園前の信号を有栖川記念公園に沿って東へ上る坂が南部坂で、坂の南側にはドイツ大使館がある。
坂上に勾配7%の道路標識が建っていた。
南部坂:坂上からの眺め。

坂の右側は有栖川記念公園、左にドイツ大使館の塀が続いている。


 本稿執筆に際して『江戸の坂 東京の坂』横関英一著 中公文庫版より「二つの南部坂と浅野屋敷」を参考にさせていただきました。「伯爵南部家回答」『正保年間江戸絵図』『新板江戸大絵図(寛文図』など、あらためて元の資料を点検しましたが、横関氏の研究に負っていることをおことわりしておきます。(横関英一氏の研究に尊敬と感謝をこめて)

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