江戸名所図会に見る「坂」

井手 のり子

 「江戸名所図会」は江戸についての民間地誌として最大のものであり、40年を費やして完成を見たもので、天保5年(1834)に3巻10冊、天保7年(1838)に4巻10冊が出版され、649図が収められている。
「江戸名所図会」の名のとおり ここには当時の江戸の名所としての風景・寺社仏閣や人々で賑わう盛り場等を見ることができるが、「坂」も数多く取り上げられている。
江戸の都市空間を彩る坂はどのようなものであったのか拾ってみた。
ひとつには坂上から風景を愛でる坂として、或いは江戸の街のランドマーク機能を持つ坂として、また神楽坂のように、賑わいを見せる坂として登場している。
掲げられた図会から往時の「坂」を読み解く参考になればと以下にピックアップを試みたものである。

ここでは図会中に名前が出てくる坂を挙げてみる。
それぞれに解説を付記すべきであるが、それは今後に譲りたいと思う。

この時代に定着していたと思われる坂名はここにおいては81が数えられる。
  *富士見坂(4) 清水坂(3) 潮見坂(3)については複数の同名坂が
   また、ひとつの坂が複数の坂名を有するものもある。

(括弧内は七巻中、どの巻のどこの部に在るかを示したものである)

潮見坂(潮見坂:巻之一 天枢之部)


中坂 九段坂(飯田町 中坂 九段坂:巻之一 天枢之部)


聖坂(聖坂:巻之一 天枢之部)


八景坂(八景坂:巻之二 天璇之部)


科濃坂(科濃坂 権太坂とも云う:巻之二 天璇之部)


行人坂(夕日岡 行人坂:巻之三 天璣之部)


雪ケ坂(雪ケ坂:巻之三 天璣之部)


仮家坂(谷保天神社:巻之三 天璣之部)


神楽坂(牛込神楽坂:巻之四 天権之部;之部)


大日坂(大日坂 大日堂:巻之四 天権之部)


目白坂(目白坂 関口八幡宮:巻之四 天権之部)


清水坂(清水薬師:巻之四 天権之部)


焼米坂(焼米坂:巻之四 天権之部)


男坂 女坂(愛宕社 總門 其二:巻之一 天枢之部)


男坂上がり口 女坂上がり口(愛宕社 其三 :巻之一 天枢之部)


榎坂 霊南坂 潮見坂(溜池 :巻之三 天璣之部)


仙台坂(麻布善福寺:巻之三 天璣之部)


薬園坂(七佛薬師 氷川神明:巻之三 天璣之部)


三鈷坂(富士見坂一本松:巻之三 天璣之部)


富士見坂 道玄坂(富士見坂一本松:巻之三 天璣之部)


観音坂(日宗寺 戒行寺 汐干観音:巻之三 天璣之部)


富士見坂 阿弥陀坂(富士見恋ヶ窪 阿弥陀堂 :巻之三 天璣之部)


宿坂(宿坂関旧址 :巻之四 天権之部)


目白坂(目白不動堂:巻之四 巻之四 天権之部)


芋坂(谷中 感應寺 :巻之五 玉衡之部)


車坂  (山下:巻之六 開陽之部)


衣紋坂 (新吉原町:巻之四 天権之部)


昌平坂 (聖堂:巻之五 玉衡之部)


千駄木坂〈潮見坂 七面坂〉 (根津権現舊地:巻之五 玉衡之部))


湯島の切通し 〈根生院:巻之五 玉衡之部〉


《名所として項目があり、その中で記されている坂》


梅林坂(巻之一 天枢之部)

 平川口御門の内にあり。文明十年(1678)の夏、太田持資(太田道灌、1432−86)、ある一室ありて、午睡のうち霊夢を感じ、翌日菅公(菅原道真、845−903)親筆の画像を得て、ここに勧請資、梅樹数百(ちゅう)()う。よって梅林坂の号ありといふ(その菅神に宮は、いま糀町平川町にある平川天満宮これなり。三巻の初め、平川天神の条下につまびらかなり)。平河は、往古、上下とふたつにわかれてありし由、小田原北条家の古文書にみえたり(本所の報恩寺、赤坂の浄土寺等の寺院、昔はこのところにありしとなり)。

綱坂(巻之一 天枢之部)

 同所松平隠岐侯と会津家との藩邸(やしき)の間を、寺町へ下る坂を(なづ)く(『惣鹿子』(『江戸惣鹿子』立羽不角、1689)に、渡辺坂とあり。菊岡沾涼(せんりょう)〈1680−1747。俳人)いふ、このところは、箕田武蔵守の居城なりと〉。また、同所有馬家の藩邸の南の坂を、綱が手引き坂と号区。綱が産湯の水といふは、同所肥後侯の園中、綱が駒繋ぎ松と称するは、壱岐侯の藩邸、綱塚は同所の功雲寺の境内にあり。(以下略)


清水坂(巻之三 天璣之部)

 尾州公御館と井伊家の間の坂をいふ。清水谷と唱ふるもこの辺のことなり(麹町八丁目へ出づる坂下までも清水谷の内なり)。このところの井を柳の井と号(なづ)くるは、「清水流るる柳蔭」といへる、古歌の意をとりてしかいふとなり。富士見坂は松平出羽候の前をいひ、玉川の瀧は同じ庭中にあり。駒井小路は富士見坂の上の方なり。駒井氏はここに住せらるるゆゑに号(な)とするといへり。


霊南坂(巻之三 天璣之部)

 溜池の上より麻布へ登る坂をいふ。慶長(1596−1615)の頃、高輪の東禅寺この地にあり(寛永〈1632〉の江戸図によれば、東禅寺、溜池の上にあり)。かの寺の開山を霊南和尚(嶺南崇六、1583−1643)と称す。道光を慕ひて坂の号に呼べりとなり。潮見坂は、同所松平大和侯の表門前に傍(そ)ふて、溜池の上より東へ下る坂をいふ。江戸見坂は霊南坂の上より、土岐・牧野両家の北の脇を曲がりて西窪の方へ下る坂なり。


行人坂(巻之三 天璣之部)

 同所同じく西の方、目黒へ下る坂をいふ。寛永(1624−44)の頃、湯殿山の行者(それがし)、大日如来の堂を建立し、大円寺と号す(この寺、いまは亡びたり)。般若塚(同じ坂の半ば、道の側にあり。延享三年(1746)縁山清林院の木食心誉一道和尚、往来の大地成就のためにとて、般若心経三千巻を書写ありて、この地中に埋蔵せられし印の碑なり)。
五百阿羅漢の石像(同じ道の左にあり。明和九年壬辰(1772)三月二十八日・二十九日両日の大火に焼死せし者の迷魂を弔はんがため、ある人これを建立すといへり。


富士見坂(巻之三 天璣之部)

 渋谷宮益町より西へ向かひて下る坂をいふ。斜めに芙蓉尾の峯に(むか)ふゆゑに、名とす。相模街道の立場にして、茶店酒亭あり。麓の小川に架せる橋をも、富士見橋と名づけたり(相州街道のうち、坂の数四十八ありとなり。この富士見坂は、その(はじめ)なりといへり)。


道玄坂(巻之三 天璣之部)

 富士見坂の下、耕地を隔てて向かふの方、西へ登る坂をいふ(この坂を登りて三丁目ほど行けば岐れ路あり。直路(すぐじ)は大山道にして、三軒茶屋より登戸の渡し、また二子の渡しへ通ず。右へ行けば駒場野の御用屋敷の前通り、北沢淡島への道なり)。世田ヶ谷へ行く道なり(道玄、あるいは道元に作る)。里諺(りげん)にいふ、大和田氏道玄は和田義盛(1147―1213)五月、和田の一族滅亡す。その残党、このところの窟中に隠れ住みて、山賊を業とす。ゆゑに、道玄坂といふなり。
『東鑑』二十一に云く・・・〈以下略〉


雪ケ坂(巻之三 天璣之部)

 飯室山の南の続きより、曲折して西へ下る坂路をいふ。登戸の辺より平村辺への通り道なり。すこぶる美景の地なり。


阿弥陀坂(巻之三 天璣之部)

 富士見塚より十三町あまりを隔てて、恋が窪村の地北へ向かひて下る坂をいふ。この坂の左に傍ひたる岡に草庵あり。土人、阿弥陀堂と称す。木像の阿弥陀如来を本尊とす(延享四年〈1747〉、鶴心(かくしん)といふ僧、この草庵の廃れたるを興す)。土人いふ、古への本尊は銅像にして、いま府中六所の宮の社地にあるものこれなりと。相伝ふ、往古(そのかみ)畠山庄司次郎重忠〈1164−1205〉、この地恋が窪の駅舎にやどりし頃、寵愛せし遊君ありしが、重忠、平家追討につきて西国へ出陣せらる。しかるにその後、をこものありて、重忠討ち死にしたる由いつはりすかしたりしを実とし、かの遊君嘆きのあまりつひに自殺したりしを、のち重忠聞きてあはれみ、かの遊君が節操を感じ、菩提のためにこの阿弥陀堂を建立し、銕をもつて弥陀如来の像を鋳て安置せしといふ、この地に道場畑(どうじょうばた)と字する地あり。土人いふ、むかしこの地に無量山道成寺と号する寺院ありしゆゑに、しか唱ふるとぞ。しかるときは、この阿弥陀堂もその境内にありしものなるべきか。またいふ、いま府中六所の宮の社地にあるところの、銕像の弥陀仏は、重忠愛せし遊君の菩提のため造立するとことの仏体なりといへども、その仏像の銘文・年号等を考ふれば、重忠とは時世おほいに違ひ、誤りなること明らけし。なほ、六所の宮の条下をみるべし)。


仮屋坂(巻之三 天璣之部)

 同所安楽寺の門前、百歩ばかり街道の西の方へ向くかひて上る坂をいふ。建冶二年(1276)奉弊使この谷保店人の宮へ下向したまひし頃、仮に旅館を設けっし旧跡なるゆゑにこの号ありといふ。


沓切リ坂(巻之三 天璣之部)

 下関戸の宿南の坂をいふ。坂の上を古市場と唱ふ。昔商戸・駅舎等ありし地なり。天正(1573−92) 已来(このかた)、この地の古道廃していまは名のみとなれり。されども府中より横切りて、相州矢倉沢・大磯等への官用の次場なり(いまも相州大山石尊・富士詣でなど、常州・野州辺より、この道にかかれり)。
相伝ふ、正平七年(1352)関二月八日武蔵野合戦のとき、新田義貞公(1301−38)。脇屋義冶公わづかに二百余騎に討ちなされ、御方の勢も散々に行き方しらずなりしかば、とても討ち死にすべき命なれば鎌倉へ討ち入りて、足利左馬頭其氏〈1340−67〉に逢ふて命を失はばやと、夜半過ぐる頃関戸を過ぎ玉引けるに、石堂入道。三浦介等の五,六千騎の勢に出て逢ひたまひ、神奈川を経、鎌倉へ討ち入り、勝利を得たまふ頃、この坂より馬の沓をとり、はだせにて打ちたまふと、よって名とすといふ。


逢坂(巻之四 天権之部)

 (あるいは大坂に作る)牛込船河原町の西、いま軽子坂とよべるはこれなり(この坂下御溝端の町家を揚場町と称ふるは、このところまでの船の通行ありて、このところより荷を揚ぐるゆゑに揚場町の唱へあり。この地に多くの軽子の住居あるゆゑに、また坂の名とせりといふ)。里諺にいふ、昔奈良の帝(平城天皇、774−824)の御宇、小野美佐吾といへる人、武蔵野守に任じてこの国へ下る。その頃このところに玄及藤(さねかずら)といひて、みめかたちいつくしき女ありけり。美佐吾、思ひそめてこれをむかへたり。月日経て、美佐吾は帝のめしにより奈良の都に上り、若草山の麓に住みけるが、いくほどもなくみまかりぬ。そのとき美佐吾いひけるは、「われ死なん後は、かならず亡骸を武蔵の国におくり、さねかづらが住める辺へ葬るべし」とぞ。されど、境はるかに隔たりぬることなればとて、大和の国なりける若草山の麓に葬りつ。そのところを武蔵野となづけそめ、またその塚をも、むさし塚とは呼びならはせしとなり(その地の古老伝へ云く、むさし塚は大納言兼武蔵守良岑安(よしみねのやすよ)世卿(785−830。桓武天皇の皇子)の古墳なりと)。かくて後、さねかづらは、美佐吾が身まかりぬることもしらざりしが、ひとり恋ひ慕ひて、神にねぎ仏にちかひ、あけくれ嘆き悲しみしに、ある夜夢のさとしありしければ、このところにきたりしに、はたして美佐吾にあひぬ。ありしにかはらぬ姿なりしかばうれしとおぼえて、しばしむつみかたらふと思ひたるに、その姿の消えうせにければ、美佐吾が身まかりぬるよしとしりて、このあたりの淵に身を投げて空しくなりたりとなり。これより後、このところを逢坂とはいへりとなん(神楽坂の西の小坂を、土俗、幽霊坂とよべり。おそらくは逢坂と混じたるか。また地名をあふ坂といひ、女の名をさねかづらといふ、好事の人の付会せること知るべし。されど伝ふること久しければ、やむことを得ずしてここに出だす。


神楽坂(巻之四 天権之部)

 同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼のときには神輿 このところに渡らせらるる。そのとき神楽を奏するゆゑに、この号ありといふ(あるいは云ふ、津久土明神、田安の地よりいまのところへ遷座のとき、この坂にて神楽を奏せしゆゑにしか号くとも、また若宮八幡の社近くして、つねに神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。


七曲坂(巻之四 天権之部)

 同所より鼠山の方へ上る坂をいふ。曲折あるゆゑに名とす。この辺りは下落合村に属せり。


清水坂(巻之四 天権之部)

 志村にあり。世に地蔵阪とも号く。旧名は隠岐殿坂と呼べり。昔隠岐守何某闢かるるゆゑなりといふ(次の熊野の宮の条下に詳らかなり)。この地?岨にして、往還の行人おほいに悩めり。よって寛保年間(1741−44)大善寺の住守直正和尚、僧西岸と力を(あわ)せ、勧進の功を募り、木を伐り荊を刈りて、石を畳みて階とす。しかありしより、行人苦難の患ひを(のが)る。


持国坂(巻之七 揺光之部)

 国分寺より真間へ行く方の坂をいふ。古へこの地に国分寺の四天王の内、持国天の堂舎ありしゆゑに号とすといへり。


《他の項目中に記された坂(括弧内は項目を示す)》

(巻之一)
柊木坂(菰が淵)淡路坂(筋違橋)

(巻之二)
朗師坂(長栄山本門寺)市が坂(長栄山本門寺)

(巻之三)
貝坂(貝塚) 葵坂(溜池) 宮村の切り通し・長坂鳥居坂(氷川明神社) 四谷くらやみ坂(一木原)  三分坂(狩野興意) 紀伊国坂・赤坂(赤根山) 円通寺坂(円通寺の旧跡) 善光寺坂(南命山善光寺)  夫婦坂(四谷) 戒行寺坂(妙典山戒行寺) 塔坂(浮岳山深大寺) 弁慶坂(竜門山高安護国禅寺) 駒場坂・大坂(道玄物見の松)

(巻の四)
網干坂蠣殻坂(牛天神社) 清玄坂(木花開耶姫の社) 小篠坂(大野山本浄寺) 相坂(堀兼の井)

(巻の五)
妻恋坂(妻恋大明神の社) 動坂・不動坂(目赤不動)

 

***************************************

この他にも名前は記されていないが、図会中に特定できる坂もいくつか見ることができる。
が、当時「坂名」が定着していたかとなると明確ではないので、ここでは「名前を持つ坂」に留めた。 また、寺社における階段坂は男坂、女坂については、特に現在において固有名詞化された「坂」以外は省くこととした。


《出展・参考》
 国立国会図書館 デジタル化資料 江戸名所図会7巻
         斎藤、長秋(他) 須原屋伊八【他】天保5−7
         斎藤、長秋(他) 須原屋茂兵衛【他】天保5−7

 【新訂江戸名所図会】(全6巻) 市古夏生・鈴木健一【校訂】ちくま学芸文庫 
 【江戸名所図会】(全6巻) 鈴木棠三・朝倉冶彦【校注】 角川文庫
 【正・続 江戸名所図会を読む】  川田壽 東京堂出版
 【悠々逍遥江戸名所】 白石つとむ 小学館
 【名所図会であるく江戸】 JTBパブリシッシング
 【最高に楽しい大江戸MAP】岡本哲志 エクスナレッジ

坂学会 井手のり子


|トップページへ